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津地方裁判所四日市支部 昭和48年(ワ)60号 判決

《住所省略》

原告 川杉行雄

〈ほか五名〉

右原告六名訴訟代理人弁護士 榊原匠司

同 松葉謙三

同 川嶋冨士雄

右川嶋冨士雄訴訟復代理人弁護士 野上恭道

《住所省略》

被告 小野田セメント株式会社

右代表者代表取締役 大嶋健司

右訴訟代理人弁護士 新関勝芳

同 玉重無得

同 浅岡省吾

同 高崎尚志

主文

一  被告は、

原告川杉行雄に対し金一二五万二五六六円

同 佐藤英明に対し金三〇六万七五九二円

同 川杉三雄に対し金三五九万七六七七円

同 毛利勝に対し金一六八万三九六一円

同 森五郎に対し金一七六万八九四五円

同 佐藤弥に対し金一四九万七八四五円

及び右各金員に対する昭和五〇年一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、

原告川杉行雄、同毛利勝、同森五郎、同佐藤弥に対し各金五五〇万円

原告佐藤英明、同川杉三雄に対し各金七七〇万円

及び右各金員に対する昭和五〇年一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告らはいずれも三重県員弁郡藤原町大字下野尻(以下「下野尻地区」という。)又は同町大字西野尻(以下「西野尻地区」という。)の住民であり、別表1記載のとおり、被告小野田セメント株式会社(以下「被告会社」という。)藤原工場(以下「本件工場」という。)から北ないし北北東又は北北西約九〇〇メートルないし一二五〇メートルの位置に所在する居宅(但し、建物の現況には一部変更がある。)に居住して、別表2の1ないし6記載のとおりの田畑等(原告ら(又はその家族)の所有或いは借地に係る。)で主として農業に従事しているものである。

被告会社は本社を山口県小野田市に置き、全国各地の工場などでセメントの製造、販売をしている会社であり、また、本件工場は三重県員弁郡藤原町大字東禅寺(以下「東禅寺地区」という。)に所在する昭和七年創設にかかる被告会社のセメント製造工場である。

2  侵害行為

(一) 本件工場は昭和四年から建設に着手され、昭和七年一号セメント焼成炉(以下「キルン」という。)、翌八年二号キルンが順次設置されて稼働を開始したことによってセメント年産能力一七万トンの工場として一応完成をみたが、昭和二六年三号キルン、昭和二九年四号キルンが相次いで増設されたことにより、年産能力は約五〇万トンに増加し、被告会社の主力工場のひとつになった。

更に、昭和三四年には右三、四号キルンが従来の方式から改良焼成法に転換されたことにより、年産能力は飛躍的に増大して、昭和四〇年ころには約二〇〇万トンに達し、昭和四五年サスペンション・プレヒーター方式による五号キルン(以下「SPキルン」という。)が増設されるに及んで、生産能力は三〇〇万トンと、被告会社の中でも最大規模の工場に発展した。

また、昭和一八年から同四九年までの間の本件工場のセメント生産実績は別表4の「藤原工場セメント生産高」欄記載のとおりであって、右生産施設の拡大に伴ない増大の一途をたどっているが、その増加率は右のように改良焼成法が採用された高度経済成長期初期の昭和三四年以降急速に高まり、昭和三七年には昭和三〇年の約二・五倍に当る約一〇二万トンが生産され、いわゆる日本列島改造政策が推進された昭和四七年には昭和三〇年の五倍以上、昭和一〇年代と比べると実にほゞ二〇倍にのぼる約二一七万トンが生産された。

(二) 本件工場は、昭和七年の操業開始以来、セメントの製造に伴い発生するセメント粉塵(以下、「事実」欄においては、「粉塵」という。)、硫黄酸化物(SOx)等を含むばい煙を大気中に排出し、原告らの居住地域、耕作農地所在地域まで大量のばい煙を永年にわたって到達させた。

また、本件工場の二四時間操業に伴う騒音は昼夜をわかたず原告らの居宅を襲って安眠を妨げ、或いは、周辺の山から山林を伐採し、セメント原料の石灰石や粘土を無計画に採掘することにより、この地域の分水嶺を変更し、更に、高濃度のカドミウムを含有する工場廃水を周辺の農業用水路に排出することによって洪水を起こしやすくするなど、原告らの生活環境を広範囲にわたって破壊した。以下に詳説する。

(1) 本件工場のセメント製造施設は、操業開始以来、順次増設、拡張されてきたが、粉塵の発生源としては別表3記載の各施設のほか、後記イ記載のものがあげられ、工場全体がひとつの巨大な発塵源として大量の粉塵を排出し続けてきた。更に、同表記載の各施設は、燃料の燃焼に伴い硫黄酸化物などの有毒ガスも排出してきた。

イ 粉塵排出量について

本件工場には、原料採掘現場、原料堆積場、原料中砕、原料粉砕、原料乾燥、原料調合、原料調整、原料混合、造粒、焼成、焼塊冷却、焼塊堆積、焼堆粉砕、製品出荷等の各工程と各工程間の運搬作業があるが、そのすべてで発塵する。即ち、本件工場から排出される粉塵は、煙突から排出されるばい煙中に含まれるものだけでなく、工場内の各所に設置された粉突、ベルトコンベア、工場建屋の窓、工場通路等あらゆるところから大気中に放出、拡散されているのである。

右発塵源のうちで推定が可能なキルンなどにつき、セメント生産高に関する資料のある昭和一八年から同五〇年までの間の粉塵排出量の推定を試みたものが別表4(〔備考〕及び付表を含む。)である。以下に同表の推定について説明する。

Ⅰ セメント製造の中心工程である焼塊(いわゆるクリンカ、以下「クリンカ」という。)の焼成工程の施設として、昭和七年湿式法による一号及び二号キルン、昭和二六年乾式法による三号キルン、昭和二九年同じく乾式法による四号キルンがそれぞれ設置されたが、昭和二九年に一号ないし四号キルンにそれぞれコットレル式電気集塵機(以下「EP」という。)が設置されるまでの間は、一号ないし三号キルンには水管室及び沈塵室以外に防塵施設はなかった。

ところで、昭和七年から同二八年までの間の焼成工程における粉塵排出量に関する正確な資料はないので、一号及び二号キルンのダスト発生量として、通商産業省企業局編「セメント業のばい煙処理技術」に記載された湿式キルン(右一号及び二号キルンと同種のもの)のダスト発生量の一例四八九・〇kg/tを使用することにすると、右一号及び二号キルンからはセメント(正確にはクリンカ)一トンの焼成に対し四八九キログラムの粉塵が発生していたことになる。

また、水管室及び沈塵室の集塵率も明らかでないが、水管室はもともと余熱回収装置であって本来の集塵装置ではなく、沈塵室にしても単に重力を利用するだけのものにすぎないこと、右書物によれば本件工場の一号及び二号キルンの沈塵室と同種の重力集塵装置の集塵率は四〇ないし六〇パーセントとされていることからすると、仮に水管室の集塵率を五〇パーセントと仮定しても、水管室及び沈塵室の合計集塵率は、多くとも八〇パーセント

50%(水管室の集塵率)+50×0.6%(右書物のあげる沈塵室の最大集塵率によった。)を超えなかったものと推定される。

そうすると、本件工場のセメント生産高の資料のある昭和一八年から同二八年までの一号及び二号キルンによる年度別の月平均粉塵排出量は、次の計算式によって求められる。

セメント年生産高(t)×ダスト発生量489(kg/t)×排出率0.2÷12

Ⅱ 昭和二六年乾式法による三号キルンが設置(サイクロン式集塵機を付設)されてから昭和二九年同じく乾式法による四号キルンが設置される以前の三年間は、湿式法による一号及び二号キルンからの排出粉塵の他に、乾式法による三号キルンからの排出粉塵が加わる。

一号及び二号キルンによる昭和二五年のセメント年生産高は一六万〇六〇五トンであったから、昭和二六年以降も一号及び二号キルンで右生産高のセメントが生産されたと仮定すると、全体の年生産高と右一六万〇六〇五トンの差が三号キルンで生産されたセメント量ということになる(以下、乾式法、改良焼成法、サスペンション・プレヒーター(SP)式による各年生産高も同様の方法で算出することにする。)。

そこで、三号キルンによるダスト(粉塵)発生量を右Ⅰと同様に前記書物に記載された乾式キルン(右三号キルンと同種のもの)のダスト発生量の一例二九一・五kg/tとし、このうち五〇パーセントが水管室で除塵され、残りの粉塵中から前記沈塵室に替えて付設されたサイクロン式集塵機により、その八〇パーセントが除去されたと仮定すると、昭和二六年から同二八年までの三号キルンによる年度別の月平均粉塵排出量は、次の計算式によって求められる。

三号キルンのセメント年生産高(t)×ダスト発生量291.5(kg/t)×排出量率0.1〔排出量の計算式:1-(0.5+0.5×0.8)〕÷12

なお、昭和一八年から同二八年までの推定粉塵排出量は、昭和五〇年の月平均粉塵排出量五五トン(前記別表4の「推定粉塵排出量」欄参照)のほゞ二〇倍という多量にのぼるが、次の事実に照らすと、その可能性は極めて高い。即ち、セメント業界では、大正六年に浅野セメント深川工場にEPが設置されて粉塵の発生防止に成功を収めて以来、キルンの発達に伴う粉塵発生量の増加に対処して新設されるキルンには殆どEPが付設されるに至り、昭和二七年には日本におけるキルン数九〇基のうち、EP五〇、マルチクロン二、沈降式三、サイクロン一などの集塵装置が設置されるという状況にあったが、このうちの沈降式三中に本件工場の一号及び二号キルン等が含まれているものと思われることからしても、本件工場の集塵装置は他工場に類をみないほど旧式、劣悪なものであって、他では考えられないほど多量の粉塵を大気中に排出していたものと考えられる。

Ⅲ 前記Ⅰに述べたとおり、昭和二九年には一号ないし四号キルンにEPが設置されたが、この集塵率も不明であるところ、右各EPの集塵率の設計値はいずれも九六パーセントであって日常稼働における現実の集塵能力は当然にこれより劣る筈であるし、右各EPのクリンカ一トン当り粉塵捕集量は、EP入口のばいじん量が本件工場と類似する被告会社大船戸工場のそれよりも格段に劣っていたこと、後記のとおり本件工場はその後相次ぐEPの改良、増設を余儀なくされたことからしても、これらEPの性能は低かったものと思われる。

そこで、右各EPの集塵率をいずれも九二パーセントと仮定すると、昭和二九年以降は前記サイクロン式集塵機の集塵率八〇パーセントにEPの集塵率九二パーセントが替わるわけであるから、昭和二九年から三号及び四号キルンが改良焼成法に転換される前の昭和三三年までの間の三号及び四号キルンによる年度別の月平均粉塵排出量は、次の計算式によって求められる。

三号及び四号キルンのセメント年生産高(t)×ダスト発生量291.5(kg/t)×排出率0.04〔排出率の計算式:1-(0.5+0.5×0.92)〕÷12

また、右EPの設置に伴い、昭和二九年以降の一号及び二号キルンによる年間粉塵排出量は次のとおりになる。

160,605(t,但し,一号及び二号キルンによるセメント年生産高の前記Ⅱによる仮定値)×ダスト発生量489(kg/t)×排出率0.04≒3,141(t)

Ⅳ 昭和三四年には、三号及び四号キルンが改良焼成法に転換されたわけであるが、当時の粉塵排出量に関する資料も又存在しないので、改良焼成法転換後の三号及び四号キルンのダスト発生量を前記Ⅰと同様に前記書物に記載された乾式生石灰式キルン(改良焼成法転換後の右三号及び四号キルンと同種のもの)のダスト発生量の一例九〇・六kg/tとすると、昭和三四年から後記EPの改良、増設に着手するまでの三号及び四号キルンによる年度別の月平均粉塵排出量は、次の計算式によって求められる。

三号及び四号キルン(改良焼成法)のセメント年生産高(t)×ダスト発生量90.6(kg/t)×排出率0.04÷12

また、同年には一号ないし五号石灰窯が、翌三五年には六号石灰窯(レポル式キルン)が各設置され、昭和三四年以降はこれらからも大量の粉塵が排出されるようになったが、その粉塵排出量は後年の実測値に基づき算出した(詳細は前記別表4の〔備考〕参照)。

Ⅴ 更に、昭和三七年にはEP集塵率を向上させるため既設EPに加えて五号EPを増設し、EP集塵率を九八パーセントに引き上げたが、一方では、一号ないし五号石灰窯のように全く集塵装置がないまゝのものもあり、六号石灰窯に昭和三六年(サイクロン式)と昭和三九年(右サイクロン式に替えてEPを設置)に各設置された集塵装置の能力も劣っていたため、昭和三七年から同四五年までの間も多量の粉塵が排出されていたものと推定され、その量は昭和五〇年の七、八倍にのぼる(前記別表4の「推定粉塵排出量」欄及び〔備考〕参照)。

Ⅵ また、昭和四五年七月にはSPキルンが増設されて本件工場の生産能力は倍加し、粉塵排出量も増加したため、行政指導が厳しくなり、周辺住民の抗議もあって、昭和四六年五月一号ないし五号キルンEPの電源を従来の機械的整流器からシリコン整流器に取替えることにより、EPの集塵率はようやく一号及び二号キルン九八・八パーセント、三号及び四号キルン九九・二パーセントまで高まった。更に、昭和四七年には、既設の四号キルンEPに加えて二通路二段式のキルンEP一基を増設しなければならなかった。

このように、キルンEPの改良、増設が昭和四六年以降急速に行なわれるとともに、その他の発塵源であるインパクトドライヤの集塵装置IDサイクロン、TCA湿式集塵機の設置(昭和四五年五月)、FOCロートクロンの設置(同年六月)等の防塵対策が行なわれ、更に、最後に残っていた石灰窯関係の防塵施設として昭和四八年一二月一号ないし七号石灰窯共通EPが新設された。その後も、バッグフィルタの増設(昭和四九年二月)、一号ないし四号キルンクーラEPの増設等キルン以外の発塵源に対する防塵施設の充実がはかられた。

その結果、昭和四六年以降徐々に粉塵排出量も減少し始め、昭和四九年以降急速に減少したものである(昭和四五年以降の粉塵排出量の推定は実測値によったが、その詳細は別表4の〔備考〕及び付表参照)。そして、このことは本件工場の防塵対策投資額の面からも裏付けられ、これによっても被告会社が有効可能な対策を永年怠ってきたことがわかる。因に、昭和四五年から同四六年にかけて、三重県において本件工場の排出濃度を測定したところ、五回の測定中三回が三重県条例に基づくばいじん等の排出基準である最大着地濃度の一五分値〇・八mg/m3を超えており、他の一回は〇・七九九mg/m3というもので、このため三重県は本件工場に対し強い改善勧告を出し、これを受けて、ようやく本件工場でも前記昭和四六年以降の防塵施設の改良、増設に着手したものである。

Ⅶ 以上の推定は、本件工場によって公開された乏しい資料に基づくものであって、排ガス中ばいじん濃度の測定毎の変動は極めて大きく、時には数倍ないし一〇倍の差が生じることもあるとされていることからしても、絶対的な客観性を有するものでないことはいうまでもないし、右資料が被告会社によって公開されたものである以上、当然被告会社に有利な数値が選択された筈であるから、実際の排出量は以上の推定値を超えていた可能性が高い。

ロ 環境中の降下ばいじん量について

Ⅰ 本件工場排出にかかる粉塵によって汚染された地域の範囲

本件工場による大気中への粉塵の大量排出によって、本件工場から、その周辺地域の主風向である南東又は北西風の方向に沿って、ほゞ半径五キロメートルの範囲内の地域が粉塵汚染にさらされてきた。

このことは、名古屋大学災害研究会のメンバーが昭和四八年ころ現地調査を行なった際、本件工場から北西約五キロメートルの位置に所在する員弁郡藤原町大字山口の民家等の雨樋堆積物中からも下野尻地区、西野尻地区のそれとほゞ同様の成分(重金属等)が検出されたことや、昭和四九年四月から同年一二月の間に三重県によって行なわれた本件工場周辺地域一帯の降下ばいじん量の測定結果によっても裏付けられる。殊に、右三重県の測定結果は、本件工場を中心として北西方向六キロメートル以内は概ね七g(/m3/月、この項において以下同じ)以上、八キロメートル付近で四・七七g、九キロメートル付近で四・〇一gであり、南東方向三キロメートル以内は概ね八g以上、四キロメートル以内は五・三gで、それを超えると四g台に減少している(但し、四月から九月までの測定値の平均)というものであって、この地域の自然的(非汚染)降下ばいじん量が後記のとおりほゞ二、三gと考えられることに照らすと、少なくとも、本件工場から主風向に沿ってほゞ半径五キロメートル以内の範囲が、本件工場による汚染の影響を受けていたことは明らかである。

Ⅱ 原告らが居住又は耕作する地域への粉塵到達量について

(イ) 原告らの居住地域、耕作農地所在地域に多量の粉塵が到達していたことは、原告らの居宅の屋根瓦、雨樋等に付着、固形化した堆積物の成分がセメント成分に酷似している事実からも明らかである。

なお、原告らの耕作農地のうち、前記主風向からやゝ外れた員弁郡藤原町大字中島(以下「中島地区」という。)及び同町大字下中島(以下「下中島地区」という。)に所在する田畑にも被告会社の排出にかかる粉塵が到達していたものであることは、本件工場からみて右中島地区等より遠方に所在し、後記のとおり被告会社が昭和四六年以降本件工場周辺地域の降下ばいじん量を測定するに際して、自ら設定した対照点である員弁郡北勢町大字瀬木の測定値をみても明らかに本件工場の季節的影響を受けていることからも窺われるところである。

(ロ) 昭和七年の本件工場操業開始以来、降下ばいじん量の実測値のある昭和四六年以降までの間、本件工場が排出する粉塵がどの程度原告らの居住地域、耕作農地所在地域に到達していたのか、実測値がないので明確にはわからないが、前記イで推定した推定粉塵排出量の経年変化、被告会社などによる昭和四六年以降の実測値、本件工場の過去における操業方法、本件工場周辺の茶畑等壊滅の事実、周辺住民の生活体験などからこれを推測するときは、右期間中、昭和四六年以降より極めて多量の粉塵が到達、降下していたものであることが明らかである。

(ハ) 被告会社は、昭和四六年一月以降、原告らの居宅及び耕作農地付近で降下ばいじん量を測定しているところ(測定結果は別表6参照)、その測定点のうち、原告らの居宅に最も近いのは員弁郡藤原町大字下野尻五四三番地佐藤隆美宅に設けられたものであり(同測定点は原告川杉三雄宅と同佐藤弥宅との間にある。)、同測定点の昭和四六年平均不溶解分は七g(/m3/月、この項において以下同じ)、昭和四七年は六gであるが、春夏季の主風向が後記ホのとおり南東風である関係で、一年のうち四月から九月までの稲作期に降下ばいじん量が多いのが特徴であって、この期間中はいずれも右平均値を上廻っている。

ところで、被告会社による右測定値中、昭和四六年一月から同四八年五月までの分は不溶解分のみの測定値であるところ、降下ばいじん全量(溶解分+不溶解分)について測定値のある同年六月以降についてみると、降下ばいじん全量は不溶解分の二・二倍ないし三・三倍であるから、全量の測定値のない右期間中も不溶解分の二、三倍の降下ばいじんがあったものと推定され、この推定方法によれば、全量の年平均で、一か月、一平方メートル当り、昭和四六年一四gないし二一g、昭和四七年一二gないし一八gのばいじんが降っていたことになる(因に、これによれば昭和四六年五月は三八gないし五八gという多量さである)。また、右期間中の年平均の全量をいわゆる最小自乗法を利用して推定すると、昭和四六年一七gないし二〇g、昭和四七年一四・五gないし一七・五gとなる。

なお、右の推定は、本件工場の推定粉塵排出量が月平均三〇七トンであった昭和四六年(別表4の「推定粉塵排出量」欄参照)の降下ばいじん量の月平均推定値であるから、それ以前の大量排出時代には、稲作期の四月から九月までの間、六〇gを超えるばいじんが原告らの居住地域、耕作農地所在地域に降っていたものと推定される。

(ニ) ところで、原告らの居住地域、耕作農地所在地域はいわゆる農村地帯であって、人口密度、交通量とも少なく、本件工場以外に顕著な発塵源は存在しないし、被告会社が降下ばいじん量を測定するに際し対照点として設定した前記員弁郡北勢町大字瀬木の測定点の、昭和四九年から同五一年の測定値(年平均)はそれぞれ三g(/m3/月、この項において以下同じ)、二g、三gであったこと、三重県による本件工場周辺地域の測定値のうち、本件工場の影響を殆ど受けていないと思われる地域の降下ばいじん全量は一gないし三gであったことなどからすれば、原告らの居住地域、耕作農地所在地域の自然的(非汚染)降下ばいじん量は二、三gとみるのが相当である。

そうすると、前記のようなばいじんの大量の降下は、その殆どが本件工場の排出にかかる粉塵によるものといえる。

ハ 硫黄酸化物について

Ⅰ 本件工場における硫黄酸化物(SOX)の排出源と排出量

(イ) 本件工場の硫黄酸化物発生施設(これが別表3の粉塵発生施設と同一であるのは、既に述べたとおりである。)は、燃料としFOCコークスを使用する一号ないし五号石灰窯を除き、その余はいずれもC重油を燃料として使用し、その燃焼に伴う多量の硫黄酸化物(主として亜硫酸ガス)を大気中に排出してきたものであるが、そのうち実測値の存する昭和四六年以降の各施設からの硫黄酸化物排出量及び排出濃度についてみると、三号及び四号キルンの硫黄酸化物排出量はほゞ一〇〇ないし一八〇Nm3/h、排出濃度はほゞ三〇〇ないし八〇〇ppm、自家発電用ボイラは同じく、硫黄酸化物排出量一〇〇Nm3/h前後、排出濃度約一〇〇ないし一五〇〇ppmというものであって、いずれも他の施設に比し際立って多量かつ高濃度の硫黄酸化物を排出しており、これらが本件工場における硫黄酸化物の主要排出源といえる。

一方、硫黄酸化物の発生防止施設(脱硫装置)としては、昭和四八年ころ、七号重油加熱ボイラに設置されたものがあるのみで、他の施設には全く設置されていない。

(ロ) ところで、本件工場は、セメント製造工程自体に原料の石灰石による脱硫作用があるとして、硫黄含有率の高い低品位のC重油(平均硫黄分二・七パーセント)を大量に使用しているが、少くとも被告会社が独自技術として開発し、昭和三四年から本件工場で稼働を開始した三号及び四号キルン(改良焼成法転換後のもの)や自家発電用ボイラなどのボイラ類には、殆ど脱硫効果がない。

即ち、各硫黄酸化物発生施設の脱硫率は、

1-(排出されるSOX量÷燃料から持ち込まれるSOX量)

によって求められるところ、被告会社が昭和四七年一〇月三一日に三重県に提出した資料に基づいて、これを算出した結果は別表7のとおりであって、これによると、三号及び四号キルンの脱硫率は約一三パーセント、自家発電用ボイラは約七パーセントと、いずれも他の施設に比し極めて低いことがわかる。

そして、三号及び四号キルンが改良焼成法に転換された昭和三四年以降、SPキルンが設置される昭和四五年までの約一二年間は、右のように脱硫効果の著しく劣る三号及び四号キルンによって、前記イで推定したように多量のセメントが生産されていたのであるから、右期間中、特に多量かつ高濃度の硫黄酸化物が排出されていたものと推定される。

また、本件工場における硫黄酸化物発生施設全体の脱硫率の単純平均は六四パーセント(右別表7参照、但し、各施設による燃料使用量を考慮しないで算出したものである。)であることなどからすると、本件工場が使用する燃料中の硫黄分の少くとも四〇パーセント近くは、大気中に排出されていたものと思われる。

Ⅱ 本件工場周辺の硫黄酸化物の環境濃度

(イ) 本件工場周辺地域における長期にわたる硫黄酸化物の環境濃度の測定値としては、三重県が昭和四八年二月ころから行なった測定値及び原告らが同年一〇月から名古屋大学災害研究会に委嘱して行なった測定値がある(このうち、名古屋大学災害研究会の昭和四八年一〇月から同四九年九月の間の測定値は別表8のとおりである。)。

右各測定値はいずれも二酸化鉛(PbO)法による測定にかかるものであるが、三重県及び原告らは、いずれも、一般に使用されている英国DSIR標準品を使用しており、その測定値は相互に比較可能であって、両者の測定結果に大きな差違がないことからすると、ともに信用できるものである。

そして、これらの測定値によると、藤原町における硫黄酸化物濃度、殊に東禅寺地区、下野尻地区、西野尻地区のそれは、年間平均で四日市市の昭和四八年環境濃度に近い値を示しているのである。

(ロ) ところで、藤原町における非汚染状態での硫黄酸化物濃度は、〇mgないし〇・〇四mg(/日/一〇〇cm3、この項において以下同じ)とみられる。即ち、右の三重県による昭和四八年二月以降の測定値のうち、年間を通じて最も低いレベルを示したのは藤原町大字上相場(中里中学校)の測定点であったが、同測定点は本件工場のほゞ真北四・五キロメートルに所在し、本件工場の影響を比較的受けにくいと考えられるにもかかわらず、主風向が南又は南東の夏季は〇・一mgないし〇・二六mg、北西又は北々西の冬季は〇mgないし〇・〇四mgと、僅かながら本件工場の影響を受けていたことからして、主風向との関係で本件工場の影響が殆どないと思われる冬季の〇mgないし〇・〇四mgをもって、藤原町の非汚染状態での硫黄酸化物濃度と考えうるのである。

そして、右非汚染状態に比較すれば、西野尻地区、下野尻地区に所在する原告らの殆どの居宅及び耕作農地はもとより、それ以外の地区に所在する農地にも、本件工場の排出する硫黄酸化物が相当多量に到達していたことがわかる。

(ハ) 他方、導電率法による測定も被告会社などにより時折行なわれているが、藤原町においては、導電率法による測定値が環境基準(一時間値の一日平均値〇・〇四ppm以下で、かつ一時間値〇・一ppm以下)を超えることはまれであるとはいえ、一時間値が〇・〇四ppmを超えることはしばしばある。

なお、農作物等の植物は、人間の健康に関するものである右環境基準以下の濃度であっても、長期間暴露されることによって被害を受けるし、また、開花、受精、結実期においては数分ないし数時間程度の短時間の高濃度汚染(いわゆるピーク汚染)によっても大きな被害を受けることが明らかにされており、このことは、本件工場周辺地域のうち、主風向の関係から下野尻地区、西野尻地区より硫黄酸化物の環境濃度の低い員弁郡藤原町大字石川(以下「石川地区」という。)からも農作物等の被害が訴えられていることによっても裏付けられるところである。

更に、本件工場から排出される大気汚染物質(有毒ガス)による農作物等の被害を考えるに当っては、硫黄酸化物の影響を考えるのみでなく、窒素酸化物、硫化水素、一酸化炭素などの物質の複合的影響についても考慮される必要がある。

ニ 重金属について

Ⅰ セメント製造工場による土壌の重金属汚染

セメント製造工場周辺の土壌がカドミウムなどの重金属によって汚染されていた事実は、昭和四七年に、東京都が都内日の出村に所在する日本セメント西多摩工場周辺の農地で行なった汚染米調査によって初めて明らかになった。その後、東京農工大学農学部助教授本間慎らは、同工場周辺土壌の重金属汚染の汚染源調査をした結果、同工場がその汚染源であると判定し、また、昭和四九年四月に東京都公害局が発表した右の土壌汚染に関する調査報告においても、汚染の特徴等から同工場が昭和四年の操業開始以来排出してきた粉塵によって同工場周辺の土壌が汚染されたものと結論付けた。

また、岐阜県においても、住友セメント岐阜工場周辺の農地でとれた昭和四八年産米中からカドミウム汚染米が発見されたのに伴い、同県において岐阜県カドミウム対策専門家会議を設置して調査に当ったところ、同工場以外にカドミウムの発生源とみられるものはないと判定された。

このように、本件工場以外のセメント製造工場の周辺地域にも、カドミウムなどによる土壌汚染があり、その汚染源はセメント製造工場であることが明らかにされている。

Ⅱ 本件工場による土壌の重金属汚染

右本間助教授らは、右東京都日の出村の土壌汚染調査をなすに当り、他のセメント工場周辺地域との比較調査として、本件工場周辺地域の家屋の雨樋堆積物、屋根の堆積物や浮遊粉塵中の重金属含有量と日の出村のそれを対比したが、その結果、両者の間には大差のないことが判明し、また、名古屋大学災害研究会が昭和四八年ころ本件工場周辺の藤原町、北勢町などで水田土壤(表層土)の重金属分布調査をしたところ(その結果の一部が別表9である。)、ほゞ、前記粉塵による汚染地域が重金属濃度も高い傾向がみられた。

更に、三重県は、本件工場周辺の農地の昭和四八年産米中から〇・四ppm以上のカドミウムを含む準汚染米が出現したのに伴い、昭和四九年四月ころから同年九月ころにかけて、本件工場周辺地域の土壌中重金属の分析調査を実施したが、その結果によると、員弁郡藤原町大字大貝戸(以下「大貝戸地区」という。)及び同町大字坂本(以下「坂本地区」という。)を除く下野尻地区、西野尻地区、東禅寺地区などの本件工場周辺地域の土壌のカドミウム濃度は、表層土が下層土より高く、その濃度及び表層土と下層土の濃度差は本件工場からの距離が大きくなるのに従って減少する傾向にあり、鉛などの他の重金属や水素イオン濃度についても、ほゞ同様の傾向がみられた。これは、前記の東京都や岐阜県の調査結果と内容的に一致しており、このことからすると、本件工場周辺の土壌も大気型の重金属汚染にさらされており、また、同地域には本件工場以外に顕著な大気汚染源が存在しないことに照らしても、その汚染源が本件工場であることは明らかである。

もっとも、本件工場周辺地域のうち、大貝戸地区、坂本地区の土壌中重金属、殊にカドミウム濃度は必ずしも右のような傾向を示しておらず、むしろ下層土の方が表層土より高く、しかも、そのいずれもが極めて高濃度であるが、このような特異現象は右大貝戸、坂本地区に限局されており、原告らの居住地域、耕作農地所在地域にまで及ぶものではない(因に、右大貝戸地区、坂本地区においても、表層土中の重金属の一部は、本件工場の排出する粉塵中の重金属に由来するものであることはもちろんである。)。

ホ 風向との関係について

本件工場の排出する粉塵等は、主として風によって周辺地域に運搬されるものであるので、原告らの居住地域、耕作農地所在地域にそれが到達するのは、主に右居住地域等が本件工場の風下に置かれる間であるところ、原告らの居住・耕作地の大部分が本件工場から北東ないし北西の方位内にあることは別表1及び別表2の1ないし6のとおりであるから、風向が南西ないし南東のときに最もよく本件工場の影響を受けることになる。

また、風速二メートル以下の静穏時においても、本件工場のように煙突高の高い煙突から排出されたばい煙は、その後相当の高度にまで上昇し、そこで空冷化されて付近一帯に拡散されることになるから、この間も原告らの居住地域、耕作農地所在地域は本件工場排出物による汚染にさらされることになる。

そうすると、本件工場周辺地域の夏季の主風向が南東風(俗に東禅寺風ともいう。)であり、稲作にとって最も重要な五月から八月の間の南東風の割合は約三〇パーセントであること、風向には一定の幅があるから右南東風の間は原告らの居住地域、耕作農地所在地域のすべてがその風下に入ること、右五月から八月までの間の静穏時は約二一・六パーセントであることからして、原告らの居住地域、耕作農地所在地域は右期間中の約四八・六パーセントの時間、本件工場の排出物にかかる汚染にさらされていたものといえる。

(2) 更に、本件工場は、その操業に伴い終日にわたって騒音を発生、放散し、また、セメント原料の石灰石、粘土などを採掘するため、員弁郡藤原町大字下野尻字大河原付近(通称、藤原鉱山及び砂川粘土山)、同町大字東禅寺字横野付近(通称、横野粘土山)の山の山林を伐採し、山を削ることによって、水源地を荒廃させ、又は山肌の吸水を妨げ、分水嶺を変更し、河川の集水面積を拡大し、或いは、本件工場の工場廃水を周辺の農業用水路(中野用水路)に多量に排出した結果、同用水路及び砂川の氾濫をしばしば招き、そのため右中野用水路及び砂川の流域に存する原告らの耕作農地などの一部が、冠水、土砂流入等の被害を被った。

(3) 以上のような本件工場の操業による侵害行為、即ち粉塵や硫黄酸化物などによる大気汚染、粉塵中に含有された重金属による土壌汚染及びこれらの複合汚染によって、原告らの耕作する水稲等の農作物は大幅な減収又は品質低下を来たし、山林は枯死し、家屋の屋根瓦、建具等に粉塵が付着してこれが固形化するばかりか、粉塵の付着によって瓦の保水性が高まることにより、屋根材が腐食し、瓦が凍て割れしやすくなり、凍て割れしない場合でも、粉塵による毛細管現象類似の現象などにより雨水が多量に瓦の裏側に侵入して雨漏りの原因になり、ひいては瓦葺或いはわら葺屋根や家屋全体の耐久力が低下するなどの被害を被り、更に騒音、排水による被害をも加え、原告らの農業経営及び生活は、全般にわたって破壊された(なお、被害の詳細は後記のとおりである。)。

3  違法性及び責任について

(一) 違法性

既に述べたように、本件工場は、昭和七年の操業開始以来、同業他社のセメント製造工場と比較しても極めて多量の粉塵等を排出し続け、長期間にわたって原告らの生活全般に被害を及ぼしてきたものであるが、その主な原因は、右操業開始当時既にEP等の設置が技術的にも経済的にも可能であったにもかかわらず、本件工場では長い間その設置を怠り、或いは、昭和三四年の三号及び四号キルンの改良焼成法転換当時、セメント業界では一般にEP電源を従来の機械的整流器からセレン又はシリコン整流器に取替えて集塵率の向上を図る施策が行なわれていたのに、本件工場は取替えを怠ったことなどからもわかるように、被告会社が永年にわたって粉塵等の排出防止施設に対する投資を抑えてきたことにある。

そのため、本件工場の右排出防止施設がようやく整った昭和四九年ころまでの間は、本件工場内の作業現場等はもとより、本件工場周辺においても、雪と見紛うばかりの顆粒状の粉塵が飛散、降下するといった状態で、本件工場から主風向に沿って半径五キロメートルの範囲内にある家屋や農地は一時は灰白色に塗りつぶされてしまい、その他硫黄酸化物、重金属、騒音、排水などの影響も加わって、本件工場周辺の住民の間に、農作物、養蚕、家屋などの被害が多発、深刻化していったにもかかわらず、被告会社は徒らに自己の責任を否認又は回避する態度に終始してきたもので、このような被告会社の態度は、原告ら周辺住民の被害と苦痛を更に増大させる結果につながった。

そして、以上のような広範、深刻かつ長期にわたる侵害は、被告会社の営利目的追及のための手段としてなされたものであって、被害住民にとっては、何ら落度がないにもかかわらず、一方的に加えられ、かつ回避する手段もない性質のものであってみれば、被害住民側の受忍限度というようなものはそもそも考慮すべきでないし、仮にそうでないとしても、本件工場による侵害行為の程度、内容等に照らし、それが受忍限度をはるかに超えているものであることは明白である。

(二) 責任

粉塵等の排出、放散という本件工場による侵害行為の性質、粉塵による環境の汚染や家屋の汚損などの事実は、見た目にも明らかであり、また本件工場の従業員をも含めた周辺住民が等しく体験してきたことであること、戦前の昭和一七年ころには既に員弁郡北勢町大字治田の住民が被告会社を相手取って稲作等の農作物被害や家屋被害の損害賠償を求める訴訟を提起し、その後も、周辺住民等から繰り返し養蚕被害、稲作被害の補償請求を受けてきたことからして、被告会社において原因解明のための調査、分析を充分に尽くしておれば、農作物被害の原因と実態についても容易に知りえた筈であることなどに照らせば、被告会社は原告らの被害の発生を知っていたか、少くとも予見できたものである。

また、右被害の発生は、被告会社において同業他社並みか、或いはそれ以上の防止努力を果たしておれば、その大部分が回避可能であった筈であるにもかかわらず、既に述べたとおり、被告会社は永年にわたって防止義務を怠ってきたものである。

そうすると、被告会社は、少くとも、昭和三四年の三号及び四号キルンの改良焼成法転換によるセメント生産量の大増産以降は故意により、それ以前は重大な過失により、原告らに甚大な損害を及ぼしてきたものであって、民法七〇九条によりこれを賠償すべき義務がある。

4  損害

(一) 以上のような被告会社の不法行為の結果、原告らは後記(二)において個別的に主張するような損害を被ったが、本件においては、本件工場の排出する粉塵等によって、原告らの農業経営及び生活の全般が破壊されたという社会的事実を、総体的にひとつの損害としてとらえるべきであって、後記(二)において述べる稲作及びそれ以外の農作物被害、農業被害の慰藉料、家屋被害の慰藉料及び生活環境被害の慰藉料の各損害項目も、単に、右のひとつの損害を金銭評価する際のしん酌事情を例示したにすぎない。

したがって、原告らは、第一次的には、昭和三五年から同四九年までの間に被告会社の不法行為によって被った全損害を包括的に請求するものである(但し、本訴請求はその内金請求である。)。以下にその理由を詳説する。

本件被害の特質は、次のとおりである。

(1) 従来の公害事件と同様に、加害者と被害者の立場が入れ替わることのない一方的被害であり、原告らにとって被害の回避は不可能であったこと。

(2) 長期にわたる継続的被害であったこと。

昭和七年の本件工場操業開始以来四十数年にわたって、原告らは間断のない被害にさらされてきた。原告らがこのように長期間にわたり継続的に被害を受けたのは、被告会社が充分な公害防止施設を設置しないまゝ本件工場を拡大し続けてきたからであり、原告らの被害は時間の経過とともに大きくなっていったのである。

(3) 被害は内容的に極めて多岐であり、深刻かつ広範囲にわたっていたこと。

原告らの被った被害は、後に詳述するように、原告らの農業経営及び生活の全般にわたっており、また本件工場の及ぼした被害は、員弁郡中、藤原町、北勢町、大安町と広範囲に及んでいる。

(4) 生産量及び利潤の拡大と損害の拡大とが関連し、利潤の一方性がみられること。

本件工場の生産量及び利潤の拡大と原告らの被害の拡大とは歴史的に概ね一致し、本件工場の生産量の拡大につれて原告らの被害は深刻さを増したものであり、まさに被告会社は原告らの犠牲のうえに莫大な利潤をあげてきたものといえる。

以上を要するに、本件における被告会社の不法行為は、その態様が極めて多様で、本件工場の操業開始以来、実に四〇年という長きにわたり、その汚染範囲も広範囲に及んでおり、原告らを含む本件工場周辺の住民の農業生活及び生活の全般を破壊するに至っているのであるから、これを通常事件と同様に、原告らに対しすべての損害の個別的かつ具体的な立証と、その積算を要求するとすれば、それは原告らに不可能を強いることに他ならず、それでは被害の集団的かつ早期の救済という、公害事件の基本的要請にも反することになる。

したがって、本件においては前記のような包括請求方式が許されるべきである。

(二) 原告らは、第二次的に、次のとおり、昭和三五年から同四九年までの損害につき、その項目を分け、損害額及びその算定根拠を明らかにするが、ここでも、前記本件被害の特質に鑑み、損害額の算定に際して定型化の手法がとりいれられるべきである(なお、原告らの家屋の種類・構造、床面積、所有者、工場からの方位・距離、建築年月日等は別表1の各該当欄のとおりであり、原告らが昭和三五年から同四九年までに耕作した田畑、山林の耕作期間及び作付状況は別表2の1ないし6にそれぞれ記載のとおりである。)。

(1) 農業被害ついて

イ 土壌の重金属汚染による農業被害

Ⅰ 水稲の被害発現濃度

平田熙東京農工大学農学部助教授は、多くの実験結果をもとに重金属による水稲の減収被害の発生濃度につき、亜鉛は五〇ppmないし三二〇ppm、カドミウムは一〇ppmないし一〇〇ppm、銅は五〇ppmないし一〇〇ppm、鉛は二五〇ppmとの見解を示している。右のうち亜鉛については、水稲の場合添加によるポット試験では五〇ppmないし三二〇ppmで、畑作物の場合はこれらより低い濃度から減収となる傾向があり、マメ科作物、大根、ホウレン草等が敏感である。因に、環境庁も亜鉛の被害発生濃度を推計し、「土壌の性質によって大きく異なり、たとえば黒ボクでは最も被害が少なく、洪積土壌、沖積土壌で比較的被害が出やすいとされており、その範囲は一五〇ppmないし五〇〇ppmと推定される。」としている。カドミウムについては、水稲の場合添加一〇ppmないし一〇〇ppmで減収となり、畑作物では数ppmレベルから障害が出始め、同族の亜鉛と比べていずれも低い。環境庁は、「土壌溶液、土壌粒子その他の条件によって異なるが、土壌中のカドミウム含有量が、概ね二五ppm以上になると水稲の生育は阻害されると推定される。」としている。

更に、現実の重金属汚染地帯では亜鉛、カドミウム、銅、鉛、砒素の複合汚染がみられ、これらの共存効果が問題となるが、前記平田助教授は、亜鉛とカドミウムが共存する場合において、減収が促進される(即ち相乗効果がある。)というデータが数多く存在することを明らかにしている。

また、水稲栽培においては落水時期が影響し、常時湛水に比べ、出穂期以降落水の場合はカドミウムの含有量が増大し、落水が重金属の含有量や減収に甚大な影響を与えるとされているが、被害をくいとめるために常時湛水を続けることは現在の農業技術のすう勢に反することになる。藤原町の土壌は乾田が多く、比較的水はけのよい水田が多い。根腐れを防ぎ、裏作の準備のためにも水を張り続けるということはあり得ないし、落水によって藤原町の水稲が、これまで減収にみまわれたということは容易に推測される。

Ⅱ 藤原町の重金属汚染状況

原告らが田畑を有する場所は、主として下野尻地区、西野尻地区、石川地区であるが、これらの地区に関係する一七地点の重金属濃度は前記別表9のとおりである。カドミウム濃度は一二地点で二ppm以上、最高五・五ppmであり、亜鉛濃度は、一一地点で一五〇ppm以上、最高二九八・六ppmであり、鉛濃度は、殆ど一五〇ppmを超え、二五〇ppmを超える地点は六地点に達しており、銅濃度は、一五地点で五〇ppmを超え、一〇地点で一〇〇ppmを超えている(但し、以上はいずれも全量濃度である。)。

これを、前記Ⅰにおいて述べた水稲被害の発現濃度と比較すると、亜鉛、銅の濃度は殆ど全地点において被害の出る濃度であることがわかるし、また同じくⅠにおいて述べた如く、重金属の複合汚染により減収が促進される(即ち相乗効果がある。)ことから、カドミウム濃度が単体では被害発現濃度以下であるからといって、収量に悪影響を与えないわけではない。本件工場が排出したことによりもたらされた重金属汚染によって、稲作が減収したことは以上のほか、谷山鉄郎三重大学農学部助教授によるころび苗実験の結果、秋落現象の存在などによっても推定できる。

また、稲作に比べて、麦や野菜類は重金属汚染に弱く、被害が現われやすいことは、実験例も多く、多くの学者が認めるところであり、環境庁も殆どの野菜が陸稲より弱いことを認めている。事実藤原町においては、野菜類の重金属可視被害が多くみられる。以上により、原告らは野菜類についても重金属汚染により減収被害を受けたことは明らかである。

ロ 大気汚染による農業被害

前記谷山助教授は、その研究により硫黄酸化物による作物の減退機構を明らかにし、硫黄酸化物による不可視被害についても解明した。そして、谷山助教授は、藤原町の現地調査により、水稲及び農作物、樹木に、大気汚染による典型的な可視被害を多く発見した。また、藤原町においては、昭和三五年と同四五年に明らかに大気汚染による可視被害と考えられる稲作減収があった。被告会社もこの被害を認め、一部弁償した事実もある。以上により、本件工場がもたらした大気汚染により、原告らが稲作等の農作物に減収被害を被っていることは明らかである。

ハ 粉塵による農業被害

前記谷山助教授は、水稲にセメント粉末をふりかけて実験したところ、セメント粉末を稲にかけると、稲の光合成を阻害し、その結果六ないし二五パーセントの減収をもたらすことがわかり、原告川杉三雄らが、藤原町の現地で同じような実験をした結果、やはり一〇ないし二〇パーセントの減収があることが判明した。昭和四八年以前は、原告らの耕作する田畑には多量の粉塵が落ちていたことが明らかであり、したがって、これが稲及び他の農作物の減収をもたらしていたことは明らかである。下野尻地区では、稲の開花期(七月ころ)にちょうど本件工場の方からの風が多くなるため、被害が大きいと考えられる。

ニ 減収被害の程度

以上述べたとおり、土壌の重金属汚染、大気汚染(主として硫黄酸化物)、粉塵の三つの原因により、原告らは農作物の減収被害を受けてきた。そして、前記平田助教授がまとめた重金属による被害発現濃度及びその被害率についての各種実験例、前記谷山助教授による安中、藤原町の重金属汚染土壌によるポット試験、同助教授による四日市での大気汚染による稲の被害の実験例ならびに藤原町における稲の収量調査の結果、同助教授らによるセメント粉末ふりかけによる稲の減収被害実験、原告らを含む藤原町農民有志が、昭和三五年、同四五年に三〇パーセントの稲の減収があったとして被告会社に被害補償を求めて交渉したことなどを総合判断すると、原告らの稲作の減収被害は三〇パーセントを下らない。

また、稲以外の農作物については、稲より重金属、大気汚染、粉塵による被害を受けやすくて、その被害率は大であり、更に稲以外の農作物については、粉塵を被ることにより品質低下を招き(なす、ホウレン草、大根などは生鮮食料品としての価値がなく、漬け物用としてしか売れず、お茶もジャリジャリして売れない等)、いくら控え目に見積っても、三〇パーセントの減収あるいは品質低下があったことが明らかである。

そこで、原告らの農作物の減収や品質低下に基づく損害は、次のとおりになる。

(稲作の被害)

原告らは、少くとも、昭和三五年から同四一年まで一〇アール当り六〇キログラム、昭和四二年から同四九年まで一〇アール当り一二〇キログラムの米の減収被害を受けたものと評価すべきところ、三重農林水産統計年報によると、昭和四八年度、昭和四九年度のうるち・もち米の政府売り玄米(一等ないし四等)の六〇キログラム当りの単価は、それぞれ一万〇二二六円、一万三四六四円であり、原告らの昭和三五年から同四九年までの水稲の耕作面積は別表10のとおりであるから、昭和三五年から同四八年までの損害を昭和四八年の単価で、昭和四九年の損害を同年の単価で計算することにすると、各原告の昭和三五年から同四九年までの稲作の損害額は別表16の該当欄記載のとおりになる。

なお、その計算式は次のとおりである。

Ⅰ 原告川杉行雄(以下、「事実」欄においては「原告行雄」という。他の原告らについても以下同じ)

10,226円×(2.127(10a)×7(年)+3.290(10a)×2(年)+3.964(10a)×2(年)×2+4.684(10a)×3(年)×2)+13,464円×4.684(10a)×2=862,494円

Ⅱ 原告佐藤英明(以下「原告英明」という。)

10,226円×(9.401(10a)×5(年)+8.760(10a)×2(年)+8.760(10a)×2(年)×2+8.882(10a)×2+8.485(10a)×2+7.031(10a)×2(年)×2+7.956(10a)×2)+13,464円×7.956(10a)×2=2,037,892円

Ⅲ 原告川杉三雄(以下「原告三雄」という。)

10,226円×(13.098(10a)×2(年)+14.184(10a)+15.526(10a)×4(年)+15.526(10a)×2+16.233(10a)×3(年)×2+17.990(10a)×2+15.832(10a)×2(年)×2)+13,464円×15.832(10a)×2=3,803,378円

Ⅳ 原告毛利勝(以下「原告毛利」という。)

10,226円×(6.655(10a)×7(年)+6.655(10a)×6(年)×2+6.043(10a)×2)+13,464円×6.043(10a)×2=1,579,343円

Ⅴ 原告森五郎(以下「原告森」という。)

10,226円×(8.058(10a)×7(年)+8.058(10a)×2(年)×2+9.082(10a)×5(年)×2)+13,464円×9.082(10a)×2=2,079,697円

Ⅵ 原告佐藤弥(以下「原告弥」という。)

10,226円×(6.757(10a)×7(年)+6.757(10a)×7(年)×2)+13,464円×6.757(10a)×2=1,632,991円

(麦作の被害)

原告らは、昭和三五年から同四九年まで、平均して一〇アール当り六〇キログラムの麦の減収被害を受けたものと評価すべきところ、三重農林水産統計年報によると、昭和四八年度の大麦・裸麦・小麦の六〇キログラム当りの各単価の平均は、金四二八一円であり、原告らの昭和三五年から同四九年までの麦類の耕作面積は別表11のとおりであるから、各原告の右期間における麦作の総損害額は別表16の各該当欄記載のとおりになる。

なお、その計算式は次のとおりである。

Ⅰ 原告行雄

4,281円×(2.708(10a)×6(年)+1.364(10a)+0.581(10a)+0.330(10a)×6(年)+0.238(10a)=87,379円

Ⅱ 原告英明

4,281円×(9.875(10a)+9.661(10a)×3(年)+9.291(10a)+8.425(10a)+7.837(10a)+7.345(10a)+6.215(10a)+5.217(10a)+4.322(10a)+3.562(10a)+0.588(10a)×2(年)+1.668(10a)=402,054円。

Ⅲ 原告三雄

4,281円×(9.949(10a)×2(年)+10.979(10a)+11.252(10a)×2(年)+11.049(10a)×3(年)+11.454(10a)+8.108×2(年)+2.583(10a)×2(年)+0.924(10a)×2(年))=519,593円

Ⅳ 原告毛利

4,281円×(6.655(10a)+4.020(10a)×8(年)+0.612(10a)×2(年))=171,406円

Ⅴ 原告森

4,281円×(7.753(10a)×9(年)+0.294(10a)×6(年))=306,267円

(大根の被害)

原告らが、昭和三五年から同四九年までの間に大根の減収及び品質低下により被った損害は、平均して、売上額の三割と評価すべきところ、原告らの昭和四四年から同四六年までの大根の収量は、別表12のとおりであり、昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年の期間は、三重県の昭和四八年度の一〇アール当りの大根収量の三一九三キログラム(別表13の③参照)をもって原告らの収量と推定し、また同年度の三重県における大根のキログラム当りの卸売価額は金三三円(同表の④参照)であり、原告らの昭和三五年から同四九年までの大根の耕作面積は別表14のとおりであるから、各原告の同期間における大根の総損害額は別表16の各該当欄記載のとおりになる。

なお、その計算式は次のとおりである。

Ⅰ 原告行雄

昭和四〇年から同四三年、昭和四七年から同四九年

3,193(kg)×33円×0.3×0.330(10a)×7(年)=73,020円

昭和四四年から同四六年

(1,275(kg)+1,110(kg)+862(kg))×33円×0.3=32,145円

合計金105,165円

Ⅱ 原告英明

昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年

3,193(kg)×33円×0.3×(1.038(10a)×2(年)+3.351(10a)×2(年)+3.721(10a)+3.946(10a)+4.534(10a)+5.026(10a)×2(年)+4.512(10a)+4.089(10a)+3.501(10a))=1,363,464円

昭和四四年から同四六年

(38,531(kg)+24,300(kg)+31,691(kg))+33円×0.3=935,767円

合計金2,299,231円

Ⅲ 原告三雄

昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年

3,193(kg)×33円×0.3×(1.308(10a)×2(年)+1.958(10a)+3.646(10a)+4.118(10a)+3.213(10a)+5.118(10a)+5.171(10a)+7.095(10a)+4.612(10a)+0.010(10a)×2(年)=1,187,519円

昭和四四年から同四六年

(38,531(kg)+24,300(kg)+31,691(kg))×33円×0.3=935,767円

合計金2,123,286円

Ⅳ 原告毛利

昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年

3,193(kg)×33円×0.3×(2.635(10a)×8(年))=666,353円

昭和四四年から同四六年

(1,736(kg)+2,955(kg)+5,186(kg))×33円×0.3=97,782円

合計金764,135円

Ⅴ 原告森(昭和四五年のみ)

847(kg)×33円×0.3=8,385円

Ⅵ 原告弥

昭和三七年から同四三年、昭和四七年

3,193(kg)×33円×0.3×0.793(10a)×8(年)=200,538円

昭和四四年から同四六年

(6,187(kg)+5,609(kg)+4,122(kg))×33円×0.3=157,588円

合計金358,126円

(お茶、桑、一般野菜の被害)

原告らが、昭和三五年から同四九年までの間に、お茶、桑、野菜類の減収及び品質低下により被った損害は、平均して、売上額の三割と評価すべきところ、昭和四八年度の三重県における各野菜の一〇アール当りの収穫量及びキログラム当りの卸売価額は、三重農林水産統計年報によるとそれぞれ別表13の③、④のとおりであり、これにより三重県における野菜類の一〇アール当りの売上額の平均値の算出すると金一七万円(一万円未満切捨)となるので、これを原告らの一〇アール当りの売上額と推定し、また原告らの昭和三五年から同四九年までのお茶、桑、野菜類の耕作面積は別表15のとおりであるから、各原告の右期間におけるお茶、桑、一般野菜の総損害額は別表16の各「野菜」欄記載のとおりになる。

なお、その計算式は次のとおりである。

Ⅰ 原告行雄

170,000円×0.3×0.581(10a)×15(年)=444,465円

Ⅱ 原告英明

170,000円×0.3×(3.825(10a)+3.611(10a)×8(年)+4.103(10a)+3.605(10a)+3.958(10a)+3.858(10a)×3(年))=2,853,603円

Ⅲ 原告三雄

170,000円×0.3×(2,884(10a)×6(年)+3.809(10a)×2(年)+3.589(10a)×2(年)+4.464(10a)+4.758(10a)+4.851(10a)+1.427(10a)×2(年))=2,500,377円

Ⅳ 原告毛利

170,000円×0.3×(1.653(10a)×8(年)+0.787(10a)×5(年)+1.399(10a)×2(年))=1,017,807円

Ⅴ 原告森

170,000円×0.3×0.305(10a)×15(年)=233,325円

Ⅵ 原告弥

170,000円×0.3×(1.234(10a)×12(年)+0.673(10a)×3(年))=858,177円

(2) 農業被害の慰藉料について

原告らの作った農作物はすべて粉塵をかぶり、特に稲作の刈取り及び脱穀の際には、粉塵が舞い上って農作物が極めて困難となり、或いは目や手を傷める原因になり、更に粉塵が付着したわらは、飼料及び加工品の原料としても使用出来なくなった。また、せっかく丹精して作った農作物を粉塵や重金属で汚染され、汚染米が出ないように農業経営上苦労を強いられる一方で、イタイイタイ病等になりはしないかなどと心配しながら、粉塵が付着しジャリジャリした米や野菜を食べたりしている。更に、養蚕についても、粉塵によって汚染された桑を食べた蚕は、小さくて質の悪い繭しか作らなくなったため、桑を一枚一枚水洗して食べさせるなど大変な苦労をした挙句、ついには養蚕の放棄を余儀なくされた。これらによる原告らの精神的苦痛に対する慰藉料としては、各原告につきそれぞれ別表16の各該当欄記載の金額が相当である。

(3) 家屋被害の慰藉料について

原告らが所有又は居住する家屋は、本件工場から排出、放散された粉塵をかぶって、屋根瓦は真っ白になり、粉塵の付着によって瓦が割れ、或いは瓦と瓦の間に粉塵が侵入するため、瓦が割れなくても毛細管現象、逆流現象により、雨水が粉塵を伝って瓦の下に入り、雨漏りを引きおこした。また、わら屋根は、粉塵をかぶることにより腐りやすくなり、普通八年ないし一〇年は持つものが、二、三年で雨漏りが始まるため、頻繁に葺き替えねばならなくなった。そして、わら屋根にトタンをかぶせても、トタンの合せ目に粉塵が入り、瓦と同様に雨漏りをおこした。以上のように、瓦の破損、わら屋根の腐蝕、その結果の雨漏りによる建物の耐久力の低下、樋に粉塵がたまり、その粉塵が水を吸っているための樋の腐蝕、雨漏りによる不快感、粉塵による家屋の汚損等の、家屋に関する損害については、家屋被害による慰藉料として請求する。そして、原告らの家屋被害の概要は以下のとおりである。

イ 原告行雄

居宅(別表1の(1)の①)の屋根瓦には、ほぼ全面に粉塵が付着、固形化して積雪したような状況を呈し、入母屋造りの隅棟と下り棟の合流点のトンネルには粉塵が詰まって雨漏りするため、同所の瓦を取り除いてトタン板を被せることを余儀なくされ、三、四年毎に樋に堆積、固形化した粉塵を取り除く作業を強いられたほか、樋や支持金具、建具等も汚損された。また、付属建物の小屋(同②)等の屋根スレート波板も粉塵のために変色し、硫黄酸化物等のため入口ドア、窓サッシも錆、傷みが激しい。

ロ 原告英明

居宅(同表(2)の①)は、当初普通の瓦であったが、粉塵の付着による割れや雨漏りがひどいため、昭和四二年に全部を黒色釉薬瓦に葺き替えたものの、この瓦も既に粉塵で汚れている。また、その他の建物の瓦にも粉塵が付着し、割れたり雨漏りがするため、毎年三〇枚くらいの瓦を差し替えた。その他、樋に粉塵が堆積、固形化し、樋及び支持金具も傷みが激しい。

ハ 原告三雄

居宅(同表(3)の①)の主屋根はわら屋根、庇は瓦であったが、わら屋根は、粉塵の付着によりわらが腐りやすく、通常五年はもつところが二年位しかもたなくなり、昭和三九年にわら葺をトタン板で覆ったが、これも既に粉塵で汚され、庇の瓦にも粉塵が付着している。また、付属建物の小屋や土蔵(同表(3)の②、③)の瓦にも粉塵が付着、固形化し、瓦の表裏がぼろぼろに欠けて割れるなどしたため、毎年約二〇〇枚の瓦を差し替えた。

ニ 原告毛利

居宅(同表(4)の①)の屋根瓦、柱等は粉塵により汚され、建物全体が古びた観を呈している。また、付属建物の小屋や土蔵(同表(4)の②、③)の瓦にも粉塵が付着して割れるため、毎年三〇枚くらいの瓦を差し替えた。

ホ 原告森

居宅(同表(5)の①)は、当初わら屋根であったのを、粉塵の付着によりわらが腐りやすくなり、一年位で葺き替えを必要とするようになったため、やむなく昭和三九年にコンクリート造陸屋根二階建に建て替えたが、既に一階ベランダなどが粉塵で汚され、黒い縞模様のしみがついている。また、付属建物の小屋は、昭和二八年に瓦を全部葺き替えたにも拘らず、既に粉塵により汚損、雨漏りがひどいため、毎年五〇枚くらいの瓦を差し替えた。

ヘ 原告弥

居宅(同表(6)の①)の主屋根はわら葺、庇は瓦葺であるが、粉塵の付着によって腐朽や割れが激しいため、昭和四五年にわら葺の上をトタン板で覆い、瓦も葺き替えた(瓦については昭和三一年にも葺き替えている。)が、既にトタン板は粉塵のため白っぽく変色し、瓦が割れて雨漏りがひどいため、毎年五〇枚くらいを差し替えた。また、付属建物の土蔵等の瓦も粉塵付着により変色又は割れがひどく、毎年三〇枚くらいを差し替えた。

以上のような粉塵による家屋の汚損等に基づく原告らの精神的苦痛に対する慰藉料としては、各原告につきそれぞれ別表16の各該当欄記載の金額が相当である。

(4) 生活環境被害の慰藉料について

本件工場の操業によって、大気は粉塵、硫黄酸化物などにより、農地は重金属によりそれぞれ汚染され、騒音はまきちらされ、また洪水に対する防止措置もとられることなく山を削られて分水嶺を変更され、或いは本件工場の廃水を多量に排出されたため洪水がおこりやすくなるなど、原告らの生活環境は広範囲にわたって破壊された。そのうち主要な被害を列挙すると、大気汚染による原告らの山林(別表17一の(1)ないし(3)など)の枯損、洪水による原告らの田(同表二の(1)ないし(9)及び二の(3)記載のとおり)が冠水したことにより減収又は作業量の増加、原告らの家屋の畳、廊下、家財道具、食品等に粉塵が付着したことによる不快感、掃除などの作業量の増加、庭木、庭石への粉塵の付着、洗たく物への粉塵の付着による不快感、作業量の増加、騒音による安眠の妨害等である。

これらによる原告らの精神的苦痛に対する慰藉料としては、各原告につきそれぞれ別表16の各該当欄記載の金額が相当である。

(5) 弁護士費用

本件訴訟についての弁護士費用は、各原告につきいずれも別表16の各「合計」欄記載の金額の一割が相当である。

5 よって、原告らは被告会社に対し、不法行為による損害賠償金の内金として、原告川杉行雄、同毛利勝、同森五郎、同佐藤弥に対し各金五五〇万円、原告佐藤英明、同川杉三雄に対し各金七七〇万円及び右各金員に対する損害発生の日の後である昭和五〇年一月一日からいずれも支払ずみまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告会社の主張

1  請求原因に対する認否

(一) 請求原因1のうち、別表1及び別表2の1ないし6記載の各事実についての認否は、別紙〔二〕認否一覧表一及び同認否一覧表二の1ないし6の各該当欄記載のとおりであり、その余の事実は認める。

(二) 同2のうち、(一)の事実は認める。同(二)の冒頭の事実のうち、本件工場から硫黄酸化物、ばいじん、重金属等を含有するばい煙が排出されること、本件工場において工場機器の稼動音があること、周辺の山から、セメント原料である石灰石、粘土を採掘していること、一部山林を伐採したこと、工場廃水の一部を農業用水路に排出していることは認めるが、その余の事実は否認する。本件工場から排出されるばい煙は、一号、二号煙突、五号煙突及び自家発電用ボイラー煙突等からであるが、その量は少量であり、その中に含まれている硫黄酸化物の量は、法規制値を大幅に下廻っており、原告主張のような被害を生ずることはない。同(二)、(1)の冒頭の事実のうち、別表3記載の各施設の存在及び構造、使用燃料、用途、設置年月日は認める。同(二)の(1)、イのうち、セメント製造についての各工程と各工程間の運搬作業があることは認めるが、その余の事実は否認する。同(二)の(1)、イのⅠないしⅦ、同(二)の(1)、ロないしホ及び同(二)の(2)、(3)はいずれも争う。(但し、既に認めた部分を除く。)。

(三) 同3の(一)、(二)はいずれも否認する。

(四) 同4の(一)及び(二)の(1)ないし(5)はいずれも争う。

2  被告会社の主張

(一) セメントの製造工程について

セメントは、石灰石と粘土類を調合粉砕し、焼成しえたクリンカに石膏を添加し、粉砕して製品とするものである。製造工程は別図2のとおり、原料、焼成、製品・出荷の三工程からなり、各工程は連続連結して稼働し、いわゆる装置産業として大幅に集中制御システムが採用されている。また、製造工程からの発塵は、電気集塵機、バッグフィルタなどの集塵機によって除去防止され、外部にばいじん、粉塵を排出しないようにされてきている。

(1) 原料工程

原料工程は、石灰石と粘土類をそれぞれ粗砕、中砕した後、所定の割合(通常は石灰石四に対して粘土類一の割合)に調合し、微粉砕され、原料サイロ(湿式法ではスラリータンク)に蓄えられるまでの工程である。この原料工程には、加水して微粉砕する湿式法と乾燥して微粉砕する乾式法とがある。

(2) 焼成工程

焼成工程は、原料工程から密閉型の輸送機によって送られた原料を加熱焼成する工程で、横状(ゆるい傾斜)に設置された円筒形の回転窯(ロータリーキルン)の高い方より原料を連続的に送入し、下方より燃料を吹き込んで燃焼させ(摂氏一四〇〇度ないし一五〇〇度)、原料を化学反応させてクリンカを生成する工程である。クリンカは冷却機で冷却のうえ製品・出荷工程に送られる。

(3) 製品・出荷工程

製品・出荷工程はクリンカに約三パーセントの石膏を添加し、微粉砕してセメントとするもので屋内工程である。セメントは密閉型の輸送機でサイロに送られ、品質検査の後、貨車、トラック、船等で出荷される。

(二) セメント製造に伴う排出物について

(1) 粉塵について

イ 本件工場の粉塵の発生と防止について

本件工場の粉塵の発生に関係する施設は、別表3の施設(但し、三、四号キルンは当初一、二号キルンと同じ湿式法であったのを、昭和三四年に乾式法の一種である改良焼成法に転換した。)のほか、原告ら主張のような各工程及び各工程間の運搬作業があるが、これらにはいずれも別表18のとおり防止施設が設置され、或いは密閉構造等によって粉塵が外部に漏れないよう処置されているため、発生した粉塵のうち、大気中に排出されるのはそのごく一部にすぎない。

なお、後記ロに係わるが、右別表記載の防止施設中、一号ないし四号EPの集塵率について、原告らは主として、各EPの集塵率の設計値とクリンカ一トン当りのばいじん補集量の多寡を根拠に、各EPとも九二パーセントであるものとして粉塵排出量を推定しているが、これは、その前提において誤っている。即ち、設計値とは充分な余裕を見込んだ保証値であるし、また、EPの集塵効果は排ガスの一定単位(例えば一立方メートル)中の含有ばいじんをどの程度捕集するかによって決まるところ、各キルンの排ガス一定単位(換言すれば同一量の燃料)当りのクリンカ生産量(焼出量)は各キルンの採用する方式等によって異なるのであるから、クリンカ一トン当りのばいじん捕集量の多寡がEPの集塵能力の優劣を示すことにはならない。因に、昭和三六年の工業技術院によるキルン悉皆調査時のデータ(うち、一号ないし四号キルンのEP入口及び同出口のばいじん濃度)に基づき、一号ないし四号EPの集塵率を正しく計算すると、昭和三六年当時、一号EP九六・二パーセント、二号EP九四・八パーセント、三号EP九五パーセント、四号EP九七・一パーセントであったことがわかる。

ロ 本件工場の粉塵の排出について

Ⅰ 「ばいじん」と「粉じん」

粉塵には、大気汚染防止法上の「ばいじん」と「粉じん」の両者が含まれるが、このうち「粉じん」はその性質上、原告らに影響することはない。即ち、「燃料その他の燃焼又は熱源としての電気の使用に伴い発生する」ばい煙(同法二条一項二号)中の「ばいじん」と「物の破砕、選別その他の機械的処理又は堆積に伴い発生し、又は飛散する物質」である「粉じん」(同条四項)とは性状等が異なり、このうち、本件工場のふるい、ベルトコンベア、堆積場等から発生する「粉じん」は、水分の保有量、粒子の大きさなどの関係で飛散しにくいため、これが工場敷地を越えて飛散することは殆どなく、まして、原告らの居住地域、耕作農地所在地域にまで到達、降下することはない。

Ⅱ 粉塵排出量

原告らは別表4の推定粉塵排出量等一覧表を作成するに当り、

① 昭和一八年から同四二年、昭和四四年、昭和四五年は、セメント年生産高とクリンカ一トン当りのばいじん排出量(ダスト発生量)からの推定計算による方法

② 昭和四三年及び昭和四六年から同五〇年は、排ガス量とばいじん濃度からの推定計算による方法

の二つの方法によっているが、これは正しく計算されたものではなく、そのデータの採用方法、計算式には、以下に述べるように基本的な誤りがある。

まず、右①による推定計算において、原告らは通商産業省企業局編「セメント業のばい煙処理技術」に記載された湿式キルンのダスト発生量の一例四八九・〇kg/tをもって、本件工場の一号及び二号キルンのダスト発生量としているが、右の例は同業他社の異なるキルンの数値であり、また、通常湿式法キルンの方が乾式法キルン等に比し、ダスト発生量が少ないのに、右の例では乾式法キルン等より極めて多量になっており数値自体が信用できないから、これをそのまゝ本件工場の一号及び二号キルンのダスト発生量とすることはできない。

本件工場の湿式法時代の粉塵排出量は、前記工業技術院によるキルン悉皆調査時のデータから算出できる。即ち、右データ中の一号及び二号キルンのEP入口のばいじん濃度(g/Nm3)は、当初は「湿式法キルン→水管室→沈塵室→煙突」であった施設のうち、沈塵室に替えてEPが設置され、「湿式法キルン→水管室→EP→煙突」となった時期のものであるので、右EP入口のばいじん濃度はEP設置前の水管室出口(沈塵室入口)の濃度に当り、これからEP入口即ち水管室出口における一号及び二号キルンのクリンカ一トン当りのばいじん排出量を算出することができるから、これを別表19のとおり計算すると、クリンカ一トン当り約三五キログラムとなる。そして、沈塵室の集塵率は約六〇パーセントであったから、一号及び二号キルンのクリンカ一トン当りの粉塵排出量は、

35kg/t×(1-0.6)=14kg/t

となって、原告ら主張の約七分の一にすぎないことになる。

更に、右データを利用して、三号及び四号キルン(改良焼成法転換後)のEP入口におけるクリンカ一トン当りのばいじん排出量を算出すると、右別表19のとおり、約一五キログラムとなる。

次に、前記②によって粉塵排出量を推定計算するには、原告らの主張するとおり、ばいじん濃度と排ガス量と各施設の稼働日数の積によることになるが、その際は、使用データによっては、次の補正をしたうえで、これを用いなければならない。即ち、排ガス中には燃料や原料中の水分に由来する水蒸気が含まれているが、一方、ばいじん濃度(g/Nm3)は水蒸気を除いた「乾き排ガス」当りの重量で示されるのであるから、原告らの使用した排ガス量(m2/h、Nm3/h)を、水蒸気を除いた「乾き排ガス」量に補正(水分補正)する必要があるし、また、気体の体積は温度によって膨張・収縮するから、データが測定時の温度での排ガス量を示している場合には、これを摂氏零度、一気圧の標準状態での排ガス量(Nm3・ノルマル立方メートル)に補正(温度補正)する必要がある。更に、原告らは各施設の稼働日数を、殆ど三〇日として計算しているが、正しくは、本件工場による大気汚染防止法上の届出日数(これは、各施設が年産能力いっぱいにフル稼働した場合の稼働日数である。)に、本件工場の現実の年間稼働率(年生産高÷年産能力)を乗ずることによって得られる日数を使用しなければならない。

いま、前記の原告ら作成に係る推定粉塵排出量等一覧表(別表4)につき、原告らの推定方法に従い、EP集塵率、クリンカ一トン当りのダスト発生量等について必要な補正をしたうえで、正しく計算しなおすと、別表20のとおりになり(算出過程の詳細については同表の〔備考〕参照)、各年度とも原告らによる推定値よりも大幅に少ない。また、本件工場の各粉塵発生施設の排出量について実測値のある昭和四五、六年以降は、各施設のいずれの測定値も三重県公害防止条例、大気汚染防止法等の排出基準を大幅に下廻っており、何ら問題とされるような状況はない。

ハ 環境中の降下ばいじんについて

Ⅰ 別表6は、被告会社において昭和四六年一月から同五一年一二月の間、原告らの居住地域及び耕作農地所在地域付近で降下ばいじん量を測定した記録であるが、原告らの居住地域及び耕作農地所在地域付近の測定値としては、これがあるのみである。

右別表6によると、本件工場からの距離、方位によって、降下ばいじん量には明らかな差異がみられる。

即ち、次の測定点②、④、⑤は、本件工場からみて北北西ないし北西方向にやゝ湾曲状に位置し、主風向が南東風のときは概ね主風向下に点在するが、本件工場からの距離によって次のとおり降下ばいじん量は明らかに違いがみられる。

(単位 g/m2/月)

測定点・工場からの距離

S46

S47

S48

S49

S50

②下野尻社宅・九〇〇m

一四

一四

一二

二・六

二・一

④西野尻・一四〇〇m

一・七

一・四

⑤大貝戸・二三五〇m

一・九

一・三

(注) 昭和四六年一月から同四八年五月までは不溶解分のみの測定値につき不溶解分(g/m2/月)で比較した。

また、方位別にみても、

(単位 g/m2/月)

測定点

工場からの方位

工場からの距離

降下ばいじん

③瀬木

北東~北北東

約一四〇〇m

⑥下野尻

北~北北東

約一二〇〇m

④西野尻

北北西

約一四〇〇m

と、本件工場からの方位の違いによって降下ばいじん量に明らかな差違がみられ、本件工場からの主風向の風下となる測定点の測定値は高いが、これを外れると大きく減少することがわかる。そして、以上のことは、原告らの居住地域及び耕作農地所在地域にも当然当てはまる。

Ⅱ 一般にばいじんの降下状況は、立地その他の環境条件によって異なるが、発塵施設の存在等人為的影響のないところでも皆無ではなく、地表からの飛散、大気中の自然浮遊物等の自然的なばいじんの降下によっても、ある程度の量は常に存在し、わが国では五トン/km2/月ないし一〇トン/km2/月程度が自然的降下ばいじん量であるといわれている。また、三重県は本件工場周辺の環境調査報告において五g/m2/月が一般的なレベルであるとしており、以上からすると、本件工場の自然的降下ばいじん量は少なくとも五g/m2/月程度のレベルにあるといえる。

(2) 硫黄酸化物について

イ 本件工場の硫黄酸化物の発生と排出について

Ⅰ 本件工場の硫黄酸化物の発生に関係する施設は、別表3の施設中、クーラを除いた施設(クーラは燃料等の燃焼を伴わないので、硫黄酸化物を発生することはない。)であるが、C重油等の燃料から持込まれる硫黄分は、セメントの製造工程(焼成工程)自体の脱硫作用によって除去され、殆ど大気中に排出されることはない。即ち、燃料中の硫黄分は燃焼により亜硫酸ガス等の硫黄酸化物(SOX)となるが、その大部分は焼成中に生石灰やアルカリ分と反応して、硫酸カルシウム等の硫黄化合物となってクリンカ中に吸収され、或いは粉塵に吸着されたものは水管室やEP等で捕集され、大気中に排出されることはない。そして、本件工場における硫黄酸化物の排出が何ら問題とされるような状況にないことは、別表21のとおり、三重県等による本件工場の各施設の硫黄酸化物排出量の各測定値(但し年平均)が排出許容量(大気汚柔防止法の排出基準から算出)を大きく下廻っていることからも明らかである。

Ⅱ セメントキルン等の脱硫率について

本件工場の硫黄酸化物発生施設の脱硫率を正しく計算すると別表22のとおりになり(算出過程の詳細については、同表の〔備考〕参照)、殊に三号及び四号キルン(改良焼成法)の脱硫率は約八六パーセントと、原告ら主張の一三パーセントよりはるかに高い。原告ら主張の脱硫率が極めて低いのは、改良焼成法では原料石灰石がキルンに送入される以前に石灰窯で仮焼されているため、改良焼成法全体の脱硫率を算出するには、生原料である石灰石をベースに、石灰窯で持込まれる燃料中の硫黄分と三号及び四号キルンで持込まれる燃料中の硫黄分を通じての全体の脱硫率を計算しなければならないのに、原告らはこのことを看過して三号及び四号キルンのみの脱硫率を問題にしているからである。

そして、右別表22によると、改良焼成法の脱硫率約八六パーセント(なお、三号及び四号キルンのみでも、少なくとも六〇パーセントを下らない。)は、一号及び二号キルンの脱硫率約八五パーセント等と比べても何ら遜色がなく、したがって、三号及び四号キルンの脱硫率が低いことを前提とする、改良焼成法転換後、SPキルンが設置されるまでの約一二年間に特に多量かつ高濃度の硫黄酸化物が排出されていた旨の原告らの主張は、全く根拠がない。また、本件工場においてキルン等の焼成工程で使用する燃料中、大気中に排出されるのは、僅かにその約一一パーセントにすぎず、問題になるような量ではない。

ロ 硫黄酸化物の環境濃度について

Ⅰ 導電率法による測定結果

昭和四九年七月から同五二年三月までの間、本件工場が原告らの居宅及び耕作地付近で行なった導電率法による硫黄酸化物環境濃度の測定結果は、別表23のとおり、いずれも国の環境基準である「一時間値の一日平均値が〇・〇四ppm以下で、かつ一時間値が〇・一ppm以下」(昭和四八年五月八日施行環境庁告示)を大きく下廻っており、また、三重県公害センターが昭和四六年六月、同年一二月、昭和四七年一〇月の三回にわたり、本件工場周辺(大部分が東禅寺地区)で実施した同じく導電率法による測定値も、右環境基準を下廻っている。

Ⅱ 二酸化鉛(PbO)法による測定結果

本件工場が原告らの居住地域及び耕作農地所在地域付近で硫黄酸化物環境濃度を測定した結果は、別表24のとおりである。

ところで、二酸化鉛法(mg/日/一〇〇cm2)は、地域別の汚染度の比較が容易にでき、費用及び労力の点でも経済的であるなどの利点がある反面、品質、温度、湿度等によって左右されやすいなどで、季節間や他の地域との比較が困難であるなどの難点があり、また、ppmの単位によって表わされる導電率法の測定値や環境基準との直接比較もできない。そこで、「三重県環境白書昭和四九年版」中で非汚染値とされている〇・五mg/日/一〇〇cm2を環境汚染判断の目安として用いると、右別表24の測定値はすべてこれを下廻っており、問題となるような汚染状況ではないことがわかる。

(3) 重金属について

イ 重金属について問題となるのは、本件工場の排出する粉塵中に含有されるカドミウム等であり、本件工場における関係施設及び防止施設としては、別表3の施設のうち、一号ないし四号キルン、SPキルン及びその集塵機類があるが、そもそも粉塵中に含まれるカドミウム等の絶対量が極めて微量であるので、全く問題とはならない。

ロ 本件工場周辺地域の土壌中重金属について

一般に、土壌中カドミウムの自然濃度は平均値で約〇・五ppm程度(最低値〇・〇五ppm~最高値二・〇ppm)と考えられており、本件工場周辺の農用地及び非農用地の土壌はいずれもこれよりも高い傾向がみられるが、その原因は、次のとおり、当地域特有の地質に基づくものである。

当地域は、ほゞ北から南に流下する員弁川をはさんで、西側には藤原岳のある鈴鹿山脈、東側には養老山脈があり、この両山脈の山すそに丘陵地がひろがっている。原告らの居住地域、耕作農地所在地域及び本件工場は、この丘陵地の員弁川右岸に所在するが、本件工場のある鈴鹿山脈東斜面に分布する地層や土譲中のカドミウム濃度は高濃度であり、殊に、大貝戸地区、坂本地区にはN―S系に延びる断層破砕帯に伴う高カドミウムの鉱化帯が存在し、これらの高カドミウムの岩石、土譲、鉱石等は風化侵蝕によって崩落流出して、下方に崔錐性扇状地堆積物として堆積した。これらの堆積層は員弁川の支流である真川によって下流に運ばれ、原告らの耕作農地所在地域等のある奄芸亜層群地層(低カドミウム地層)の上に薄く堆積し、これが原告らの耕作農地所在地域の作土層をなしているものと推測される。したがって、右大貝戸地区、坂本地区を除いて、本件工場周辺地域の土譲中カドミウム濃度が表層部に高く下層土に低い傾向があるのも、右の理由によってその説明が可能である。また、右真川や、同じく員弁郡の支流である砂川の降雨時の懸濁浮遊物質中のカドミウム濃度が高濃度であることも、用水等によって水田に供給されることにより、水田土譲の高カドミウム化を助長する一因になったものと思われる。

(4) 風向との関係について

本件工場付近の風向は、別図3にみられるとおり、年間を通じ、概ね、北西ないし北が約五〇パーセント、南東が南々東と東南東を含めて約二〇パーセント、静穏が約二〇パーセントであり、また、季節的には夏季は南東、冬季は北西ないし北北西が主風向であって、北東ないし東の風、南西ないし西の風が吹くことは極めて少ない。即ち、本件工場を中心としていえば、風は夏季においては西野尻地区や大貝戸地区の方向に吹き、冬季においては東禅寺地区の方向に吹く。

ところで、原告らの居宅及び耕作農地は、いずれも本件工場より北に所在するから、冬季の主風向である北西ないし北北西風の吹く時に、その風下に入ることはなく、本件工場からの排出物の影響を受けることもない。また、夏季の主風向である南東風の吹く時でも、西野尻の集落近辺にある原告川杉行雄の居宅を除き、本件工場の真北から東寄りの下野尻の集落内にある他の原告らの居宅は、すべて主風向から外れており、したがって、本件工場の排出する粉塵等の到達量は少ない。更に、原告らの所有又は耕作する田畑及び山林のうち、下中島地区や、員弁郡藤原町大字下野尻字野尻垣内、同町大字下野尻字轟、同町大字西野尻字轟、同町大字下野尻炭焼、同町大字志礼石新田字白瀬野に所在するものは、いずれも本件工場の真北から東寄りにあって右の夏季の主風向から外れていることのほか、本件工場からの距離や地勢などとの関係で、本件工場から排出される粉塵等が到達することはなく、仮に到達したとしてもその量はごく僅かであって、原告らの主張するような農作物に対する影響は考えられない。

(三) 損害の発生と因果関係の不存在について

(1) 農作物被害について

イ 稲作の減収被害の不存在

Ⅰ 農林統計上の比較考察

農林統計に基づき、旧東藤原村(本件工場に近接した東禅寺、下野尻、西野尻、石川の四地区からなるが、昭和三〇年四月の旧白瀬村など四か村と合併して藤原村になり、これがその後現在の藤原町になった。)、藤原町及び員弁郡における各水稲収量について、本件工場の操業開始前の昭和元年から同七年、操業開始後の昭和八年から同三一年(右合併のため、旧東藤原村の統計数字は昭和三一年までしか存在しない。)、昭和三二年から同五一年までの三期に分け、各期間ごとの平均水稲年収量(キログラム/一〇アール)と、員弁郡の平均水稲年収量を一〇〇とした場合の旧東藤原村及び藤原町の指数をそれぞれ示したものが別表25である。

同表によれば、

(イ) 本件工場が操業を開始していない昭和元年から同七年までの旧東藤原村の七年間の水稲収量の平均は、員弁郡の一〇〇に対し、九二・六であること

(ロ) 本件工場の操業が開始された以降の昭和八年から同三一年までの一七年間(欠年を除く。)については、員弁郡の一〇〇に対し、旧東藤原村は九一・二であり、これは右(イ)の九二・六と有意差がないこと

(ハ) 更に、昭和三二年から同五一年までの二〇年間の平均について、員弁郡の一〇〇に対し、藤原町は九〇・六であり、これも本件工場操業前の昭和元年から同七年までの八九・四及び操業後の昭和八年から同三一年までの八八・五の各数字と比較して有意差はないこと

がそれぞれ認められるが、以上を総合すれば、員弁郡の水稲収量に比較して、原告らの耕作農地を含む旧東藤原村又は藤原町(旧藤原村)において減収があったとは到底考えられない。

Ⅱ 原告川杉三雄の収量について

農林統計及び原告川杉三雄の農業日誌によれば、原告川杉三雄の水稲収量は藤原町平均のみならず、三重県平均と比較しても高収量であり、いかなる年といえどもこれらを下廻ったことはなく、また、同原告の水稲収量の経年的推移は藤原町平均のそれの動きに酷似している。

更に、被告会社の依頼によって行なわれた昭和五二年の本件工場周辺における水稲収量調査によると、下野尻地区、東禅寺地区のうち主風向などとの関係で本件工場からの排出物の影響を受ける可能性のある地域の一〇アール当りの平均水稲収量は四三九・七キログラムであったが、これは北勢町大字阿下喜などの対照区と比較して有意差の認められない収量であり、また、昭和五二年ころに減収被害がなかったことは原告らも自認しているところであるから、右四三九・七キログラムは、被害のない状態での右地域における昭和五二年の平均水稲収量ともみることができ、これと本訴請求に関係する昭和三五年から同四九年までの一五年間の原告川杉三雄の一〇アール当り平均水稲収量約四二二キログラム(右農業日誌等により算出)を比較すれば、その間の稲作技術、肥料、農薬等の進歩を考慮に入れた場合、全く遜色がないか、或いはそれ以上のものであるといえる。

以上によれば、原告川杉三雄の水稲収量の減収の主張が全く根拠のないものであることは明らかであるし、また、このことは他の原告らについても、そのまゝ当てはまるものである。

Ⅲ まとめ

Ⅰ、Ⅱで検討したとおり、統計上の考察及び被害のない状態でのあるべき収量との比較において、原告らに水稲収量の減収があったとする何らの証憑もないことは明白であり、更に、原告らがその減収の根拠とする谷山鉄郎三重大学農学部助教授の水稲収量調査も、調査地点の選択などの点において極めて恣意的なものであり、また、三重県及び本件工場の行なった水稲収量調査では減収傾向は何ら認められなかったことに照らせば、到底信用できないものであって、原告らに水稲収量の減収被害がなかったことは明らかである。

ロ 本件工場排出物と原告らの稲作の関係

Ⅰ 土譲中重金属

(イ) 重金属濃度間の比較について

植物の必須元素である銅、亜鉛、鉛などの重金属も一定限度を超えて過剰に与えれば有害であるのは当然であり、被告会社は、この過剰害に関する多くの知見があることまで否定するものではないが、原告らが援用する平田熙東京農工大学農学部助教授の知見等は、土壌中に含まれる重金属の全量についての濃度ではなく、その一部たる可溶性成分のみについての数値であって、原告らのように、これをそのまゝ藤原町における土壌中重金属の全量濃度と比較するのは基本的に間違いである。また、水耕試験、ポット試験における被害発現濃度と現実の田畑土壌における被害発現濃度との間には、後者の方が前者よりも高い傾向があり、同列に論ずることはできない(例えば、水耕試験の場合、現実の田畑では、土壌の介在によって水耕試験の被害発現濃度よりも一桁ないし三桁も高い濃度ではじめて被害が生ずるといわれている。)。

(ロ) 水稲被害発現濃度と原告らの耕作農地所在地域の土壌中重金属濃度について

銅は農用地の土壌汚染の防止等に関する法律により「人の健康及び農作物の生育阻害のおそれのある物質」として指定され、過剰害の基準として同法中に一二五ppm(可溶性濃度)と定められているが、土壌中の全量濃度としては更に高い濃度が予定されており、亜鉛は前記平田助教授の論文中でも「可溶性濃度五二〇ppm以上になると成育は阻害される」とされている。また、カドミウムは植物の必須元素ではないが、低濃度では植物に害を与えず、かえって成長促進効果があるとされており、農学博士岡本春夫の研究や右平田助教授の論文によると、可溶性濃度一〇ppmないし一二ppmで被害が生じるとされている。

一方、原告らの耕作農地の所在する西野尻地区、下野尻地区、石川地区の水田土壌中重金属の可溶性濃度は、昭和四九年三重県発表の調査資料によれば、鉛〇・一ppmないし九・九ppm、亜鉛〇・五ppmないし四五・三ppm、カドミウム〇・四三ppmないし四・四二ppmというものであるから、これを右の被害発現濃度と対比すれば、植物に被害を与えるような濃度でないことは明らかである。

(ハ) 原告らは、他にも前記谷山助教授のころび苗試験や秋落現象などを重金属被害発生の根拠として主張するが、いずれも、苗根への酸素の供給、土壌の理化学性、腐植の程度などころび苗や秋落現象の最大の原因とされている要因の検討が全くされておらず、これらをもって重金属被害発生の根拠とすることはできない。事実、被告会社側が行なった実験及び現地調査によると、ころび苗については土壌中重金属濃度との相関関係が全く認められなかったし、秋落現象にしても、藤原町全域にひろがっており、地域的特性が全く認められなかった。

また、右調査等によると、本件工場周辺の水田土壌中カドミウム濃度と水稲の収量の間には全く相関関係が認められなかった。

Ⅱ 硫黄酸化物

(イ) 不可視被害の不存在

原告らの主張するような不可視被害は、学説としても単なる仮説に過ぎず、いまだその存在が明らかにされているものとはいえない。また、仮に不可視被害が存在するとしても、原告らの耕作農地においてそのような被害が発生していないことは明らかである。

即ち、前記谷山助教授の知見等によると、実験上水稲では硫黄酸化物濃度〇・〇八ppm程度、植物の種類によっては〇・〇二ppm(一時間値)程度から光合成阻害が生じはじめるというのであるが、不可視被害には光合成阻害の段階と生育阻害・減収の二段階があり、生育阻害・減収は光合成阻害の場合よりもはるかに高濃度の硫黄酸化物に、しかも長時間連続接触することによってはじめて発生するとされているところ、前記した原告らの耕作農地所在地域の大気汚染状況は、光合成阻害はもちろん、生育阻害・減収を発生させるようなものでなかったことは明らかである。

(ロ) 可視被害の不存在

可視被害は、様々な知見によっても明らかなとおり、不可視被害よりも一層高濃度の硫黄酸化物に農作物が暴露されることによって発生するものであるから、右現実の大気汚染状況に照らし、原告らの耕作農地付近において可視被害が発生する筈はない。原告らは、前記谷山助教授が現地調査したところ、野菜等に多くの可視被害症状を発見したというのであるが、これとて病虫害、栄養不良等、ほかにも原因が考えられるものばかりであるし、また、原告らが主張する昭和三五年、同四五年の補償金の支払いについても、水稲収量の減収被害の存否及び原因が明らかにされたわけではなく、地元との協調を願う立場から被告会社が一部金員を支払って円満解決をはかったにすぎない。

Ⅲ 粉塵

原告らが粉塵による稲作被害発生の根拠として援用する前記谷山助教授のポット試験及び原告川杉三雄らの現地試験は、いずれも不自然かつ過酷な条件のもとに行なわれており、到底信用できないものである。即ち、両試験の試験方法はいずれもセメントを三日ごとにまとめて水稲の葉の表面に散布するというものであるが、三日分が一度に植物にふりかかるなどということは自然環境下では絶対にありえないことであるし、殊に、原告川杉三雄らの現地試験は一日に一平方メートル当り二グラム(一平方キロメートル当り一か月六〇トン)という極端な量を散布しており、その数字の根拠も測定によるものではなく、事実と違う単なる想像による架空の数字を用いたものであって、現実の水稲収量の減収発生の根拠となしえない。

ハ 本件工場周辺の稲作栽培条件について

本件工場周辺の稲作栽培には、次のような悪条件が重なっている。

Ⅰ 自然的条件

(イ) 天候(気温、日照量)

藤原町は山間部にあるから、員弁郡全体のなかでも、また、三重県全体と比較してもその条件は悪い。

(ロ) 用水温

藤原町は山間部であるために用水温が低く、稲作に悪影響が大きい。

(ハ)土壌の質

藤原町、員弁郡とも土壌の質が悪く、後記田植時期の早期化をはかっても収量が伸びない。

(ニ) 病虫害

藤原町にはゴマ葉枯病、イモチ病が多く、病虫害対策も充分ではない。

Ⅱ 人的条件

(イ) 施肥管理

藤原町は一般に施肥管理が適切でなく、収量の低い水田は施肥管理が拙劣であるところが殆どである。

(ロ) 栽培努力

藤原町では兼業農家が多く、しかも小規模農家が員弁郡全体の比率よりも多いので、農業収入よりも他収入への依存度が高いから、おのずと農業経営に力が入らなくなっている。

(ハ) 早期化の遅れ

三重県における田植時期の早期化による成果は素晴らしいものがあるが、藤原町は三重県平均よりも早期化は遅れており、かつ天候、用水温の条件が員弁郡平均よりも悪いので、その効果は員弁郡よりも低くなっている。

(ニ) 水の管理

藤原町で収量を上げるためには、もっと水を切り、土を乾かして酸素を十分土壌に供給し、健全な稲を作って収量を上げる必要がある。

以上のように、藤原町ないし本件工場周辺は、三重県平均或いは員弁郡平均と比較した場合に、その自然的条件、人的条件が劣っており、そのために米の収量は三重県平均、員弁郡平均より低収傾向を示すのは当然であって、それをもって本件工場に原因があるとする原告らの主張は不当である。

ニ 以上イないしハで検討したとおり、原告らの稲作に減収被害が発生したとは到底考えられないが、仮に原告らの主張するような減収がみられたとしても、それは原告らの耕作農地を含む本件工場周辺での稲作栽培条件の劣悪さに起因するものであって、本件工場の排出物との間には自然的、法的因果関係が存しない。また、原告らの減収率に関する主張も、本件工場がなければどの程度の水稲収量があったかという当然の前提が確定せずしてなされているものであり、全く根拠がない。

ホ 稲作以外の農作物被害及び因果関係の不存在

原告らは、麦作、大根、茶、一般野菜等の農作物は、稲作の場合よりも重金属等に弱く被害を受けやすい旨主張するが、そのような根拠は全くなく、これらの農作物に被害が存在しないこと、仮に何らかの被害があったとしても本件工場の排出物との間に因果関係がないことは稲作と同様である。

事実、原告らの一〇アール当り大根収量は、原告らが減収のない状態での標準収量として主張する昭和四八年の三重県における大根の一〇アール当り平均収量を殆ど上廻っているし、本件工場の依頼により行なわれた昭和五二年の本件工場周辺における野菜(さといも、大根、かんしょ)の収量調査によると、対照区(北勢町)と比較して、本件工場周辺の収量が特に低いなどという傾向はみられなかった。

(2) 山林及び養蚕被害について

本件工場周辺の造林地の生長は、一般に、本件工場の影響の考えられない他の地域の山林のそれと全く差異はなく、原告らの主張するような大気汚染等による被害は認められない。もっとも、原告らの一部山林に若干の樹木の立枯れ等がみられるが、これらはいずれも手入れ不足により立木密度が過密になったために起った自然枯死現象か病虫害に犯されたものである。

また、本件工場周辺の農家においても、昭和三〇年以降に養蚕が次第に衰微していったが、これは、戦後の経済復興に伴う農業労働力の他の産業部門への移行、ナイロン等の化学繊維の発展など産業構造自体が変化したためであって、本件工場の操業とは全く関係のない理由によるものであり、原告らが昭和四七年ころまでに養蚕をやめたのも、右のような理由に基づくものである。

(3) 家屋被害について

イ 原告らの各居宅の汚染の時期及び程度

原告らの居宅の所在する下野尻地区(原告川杉行雄については西野尻地区)においては、わずかの距離の差で粉塵の到達状況に顕著な差がみられ、各居宅の所在位置によって汚染程度は全く異なるのであるから、原告らを一律同視して論ずるのは当らない。また、前記別表20によってもわかるように、本件工場の粉塵排出量は昭和三四年の三号及び四号キルンの改良焼成法への転換によって一時的に増加したが、昭和三七年以降の一連の防塵施設の増強により急速に減少しているのであるから、原告らの居宅の汚染状況も昭和三七年以降はその程度が著しく減少した筈である。

原告らの各居宅につき個別的にみると、原告らの居宅のうち主風向の影響下にあるのは昭和三四年に新築された原告川杉行雄の居宅のみであり、これが本件工場の排出する粉塵により若干汚染されたことは事実であるが、汚染時期は同原告自身の供述や右粉塵排出状況からして、昭和三五年ころから同三七年ころであると考えられる。また、その他の原告らの居宅はいずれも下野尻の集落内にあって主風向から外れているため、粉塵による汚染は殆どみられなかった筈であるし、仮に若干の汚染があったとしても、その汚染時期は近隣の家屋の状況からみて、遅くとも昭和四四年以前であったことが明らかである。

ロ 瓦の割れや雨漏りの原因

原告らは、瓦に付着した粉塵の毛細管現象によって雨水の逆流が生じ、瓦の保水性が高まることが瓦の割れや雨漏りの原因である旨主張するが、粉塵の付着による毛細管現象などということには何らの実証的根拠もない。このことは、毛細管現象でかつて雨漏りしたという原告らの納屋等が、その後粉塵の付着状況が全く変わっていないにもかかわらず、雨漏りが続いている形跡がないことからも裏付けられる。

むしろ、瓦が割れるのは、寒冷期における気温差の大きいこの地域特有の気象条件や、使用される瓦自体が、釉薬瓦等表面の塗装された瓦に比し質が劣り、表面密度も粗で多孔質の日本瓦(燻瓦)を使用していることによって、凍て割れを起こすためであり、事実、この現象は本件工場周辺だけでなく、本件工場の排出する粉塵の影響がないと思われる他の地域にも等しくみられるのである。また、本来、日本瓦はその背面に雨水が流下する仕組みになっており、原告らの居宅にも多くみられるように瓦の下地として全面に土を敷けば、瓦の背面に廻った雨水が下地の土に吸収され、雨漏りが起こりやすくなるのは当然である。

以上のとおり、原告らの居宅の瓦の割れや雨漏りは、本件工場の排出する粉塵とは何ら関係のない理由に基づくものである。

(4) 騒音被害について

イ 関係施設と本件工場の防音努力について

本件工場においては、キルン、ミル、石灰窯、ふるい及び分級機等から稼働音が生じるが、操業開始以来、近隣の住民との間に騒音に関するトラブルが発生したことはなかったところ、昭和四五年のSPキルンの稼働開始に際し、本件工場の北東側境界線に隣接する石川地区の住民との間に騒音問題がもちあがった。即ち、工場から発生する騒音は工場敷地境界線上での大きさが問題とされ、特定施設個々の稼働に伴う敷地境界線上での集合音が規制の対象とされるのであり、本件工場の場合は三重県公害防止条例により、

昼間(午前八時から午後七時まで)六〇ホン

朝夕(午前六時から八時及び午後七時から一〇時まで)五五ホン

夜間(午後一〇時から翌日の午前六時まで)五〇ホン

と定められているところ、右昭和四五年のSPキルンの稼働開始に伴い、一時本件工場敷地境界線上の騒音が右規制値を超える事態が発生し、石川地区住民からも苦情ができるようになったため、本件工場においても急遽対策を検討し、多額の費用を投じて消音装置、防音建家、遮防音壁、遮音堤等各種の防音工事及び防音施設の設置に努め、その結果再び右三重県公害条例の基準をみたすに至り、石川地区の住民との間にも円満解決がはかられた。

ロ 原告らの居宅付近の状況

原告らの居宅地域は、いずれも石川地区を隔てた向こうにあって、距離的に本件工場から離れているため、操業開始以来工場騒音による被害はなく、右イの石川地区とのトラブルの際にも全く被害はなかったものである。そして、このことは、本件工場が昭和四九年から同五〇年三月にかけて原告らの居宅付近で騒音を測定したところによると、測定値はいずれも五〇ホン以下のレベルにとどまっていたこと、それ以前には原告らの居宅付近における直接の測定値はないものの、石川地区とのトラブルに際し三重県及び本件工場において同地区内の騒音を測定した結果によれば、測定点中原告らの居宅に最も近接した位置にある測定点の測定結果は四三ないし五二ホン程度のレベルであったから、距離減衰を考慮した場合、原告らの居宅付近で五〇ホンのレベルを超えていたというようなことはありえないことなどによっても裏付けられる。

(5) 排水被害について

イ 関係施設

本件工場においては、操業開始以来、主として員弁川の伏流水から取水した毎時七〇〇トン程度の用水をボイラ用水、機器冷却水、石灰石水洗用水等に使用した後、砂川(中野水路経由)、梅の木、山の神の各排水口から排水している。また、藤原鉱山の雨水は砂川に、横野粘土山の雨水は本件工場の田野溪沈殿池を経て中野水路に流入する(但し、昭和四八年以降は一部を東禅寺地区方面に流すよう流路が変更された。)。このうち、原告らの耕作農地所在地域に影響を及ぼす可能性があるのは、砂川及びその支流である中野水路の関係施設である。

なお、砂川は、もともと、上流地域の山が急峻なことや川幅が狭く、川筋も曲折が多く蛇行していたことなどから、台風時や大雨の際にしばしば氾濫を起こしたため、国庫補助のもとに、昭和三七年から一〇年計画で改修工事が行なわれ、昭和四六年一〇月に改修工事が完了した結果、その排水能力は約三倍に増大し、台風時の氾濫もなくなった。また、中野水路についても、元は幅五〇センチメートルくらいの素掘りの谷川で、途中曲折も多いところから、台風時等に氾濫することが多かったため、藤原町において昭和五一年一月改修工事に着手し同年五月に完了した。

ロ 排水被害の不存在

原告らは、本件工場が藤原鉱山、横野粘土山等で山林を伐採し、無計画にセメント原料の石灰石等を採掘したため、集水範囲や分水嶺が変更され、或いは山肌の吸水が妨げられるなどによって砂川等が氾濫しやすくなった結果、その田畑が冠水被害等を被った旨主張するが、藤原鉱山、横野粘土山等の採掘による分水嶺や集水範囲の変更はごく僅かであって、砂川、中野水路への影響は殆どなかったものであるし、石灰石採掘法自体による緩衝作用や岩盤の亀裂による吸水、貯水槽の設置などにより雨水が一拠に流下することもない。

また、前記砂川及び中野水路の改修以前に、これらが氾濫して原告らの田畑の一部が冠水したとしても、それは、前記イで述べたように砂川や中野水路が曲折多く川幅が狭いなどの理由で、もともと氾濫しやすい状況にあったためであり、事実、被告会社に判明している限り、砂川及び中野水路の氾濫で原告らの田畑の冠水等が起こったのは、いずれも記録的な集中豪雨や台風の際である。

(四) 責任及び違法性について

(1) 故意・過失の不存在

既に述べてきたように、本件工場では操業開始以来、住民に迷惑を及ぼさないために、それぞれの時期を通じ、最善の設備、技術により最大の努力を重ねてきた。また、管理面においても、工場をあげて公害の防止に取組んできたのであり、ばい煙防止法、大気汚染防止法をはじめとする関係法令、条例などに定める規制の遵守はもちろんのこと、更に一層の改善をはかってきた。

したがって、被告会社には原告ら主張のような故意又は重大な過失のないことは明らかである。

(2) 違法性の不存在

ばい煙(粉塵、硫黄酸化物等)、騒音及び排水のいずれについても、本件工場の操業によって自然生活環境又は原告らの日常生活等に特に影響、支障を及ぼしたという事実はなく、仮に何らかの影響があったとしても、それは極めて軽微であり、受忍限度を超えるようなものではなかったことは明らかであるから違法性はない。また、本件工場が操業開始以来、付近住民に迷惑を及ぼすことのないよう公害発生の防止に全力を尽してきたものであることは既に述べたとおりであるし、更に、多年にわたって本件工場は各種の寄付、賛助等を通して地域社会の一員としてその発展に寄与してきており、ために本件工場の立地する旧東藤原村は長らく富裕村として周辺町村の羨望の的になってきたのである。

(五) 損害論について

(1) 包括請求等の不当性

原告らは、包括請求という名の下に、被告会社に対し、範囲、内容とも曖昧な主張、立証に対する応答を強いるもので、相手方において防禦が可能な程度に損害の主要事実を主張、立証しなければならないという損害賠償請求訴訟の原則に反しているばかりでなく、原告らの主張する「農業経営及び生活全般の破壊」というような曖昧なものを訴訟物とすれば、将来における別訴の提起等において二重提訴、既判力の範囲等について著しい不都合が生じるのは必至である。本件においては、原告らは本訴請求は更にその内金請求であるとするのであるから、法的安定性を阻害すること一層甚だしいものがある。

また、本来、請求において個別に主張、立証することを要するのは民事訴訟における基本原則であって、人身損害が問題となった他の公害裁判とは異なり、本件のようにその大部分が財産的損害である場合には当然個別的主張、立証が必要であり、また可能な筈である。仮にそれができないとすれば、それは具体的損害が発生していないか、或いは把握できない程度のものでしかなかったからに他ならない(なお、原告らは損害の定型的把握をも主張するが、人身損害や家財という生活基盤そのものを喪失した場合についてならば格別、本件のような財産的損害にとどまる場合には当らない。)。

(2) 損害額について

原告らの損害額に関する主張は、総じて極めて杜撰であるが、なかでも、農作物被害の損害額に関する主張は、作物の種類、耕作年度、耕作者の営農努力、価額の変動などを全く無視したものであって、極めて不合理かつ不当である。

例えば、減収量は作物の種類、品種、土質、気象条件、肥培管理等によって当然異なる筈で、各原告、各耕作年度、各作種とも一律に三割の減収などということはありえない。また、単価についても、原告ら主張のように稲作については昭和四八年又は昭和四九年の、麦作については昭和四八年の三重農林水産統計年報の米価又は麦価を、昭和三五年から同四九年の全期間にわたって一律に適用するのは明らかに不当であるし、大根やお茶、桑、一般野菜の単価についても、右と同様の意味で不当なばかりか、野菜類の作種を別表13の一一種に限る根拠が明らかでないこと、生産者価額によらず、これに流通経費を上乗せした卸売価額によっていること、市場における激しい価格変動を考慮していないこと、大根、なす、きゅうりは大部分が漬物業者との契約に基づく大量販売であるから業者との間の単価が定められている筈であるのに(相当安かったものと思われる。)これを使用していないこと、大根の露地ものハウスものの区別がされていないこと、さつまいもは殆ど飼料用であった筈であるのに食用野菜としての価額によっていること等多くの点において不当である。

また、原告佐藤英明は、昭和四八年と昭和四九年にそれぞれ一四二一平方メートルの畑に茶を作付けた旨主張するが、茶は通常成木となるのに三年ないし五年かかるところ、同原告主張の茶は昭和四八年に苗木を植えたものであるから、右両年に収穫は期待できず、したがって損害もある筈がない(仮に、成木に至るまでに苗木が枯れるなどで若干の補植をしたとしても、土壌PHや消毒などの栽培管理が不十分であったからであって、本件工場の排出物とは何の関係もない。)。

三  抗弁

原告らの本訴請求中、本訴提起の時(昭和四八年五月一四日)から既往三年以前の損害賠償請求権については、次のとおり、民法七二四条の短期消滅時効が完成しているので、被告会社は本訴において右消滅時効を援用する。

1  消滅時効の起算時

民法七二四条は、「不法行為ニ因ル損害賠償ノ請求権ハ被害者又ハ其法定代理人カ損害及ヒ加害者ヲ知リタル時ヨリ三年間之ヲ行ハサルトキハ時効ニ因リテ消滅ス」と定めているが、同条にいう「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」とは、被害者が損害の発生と、これにつき損害賠償を請求しうる可能性のあることを知ることをもって足り、因果関係の存在や損害の程度、数額を正確、具体的に知ることまでは必要でないと解するべきである。そうでないと、原告らの都合や不熱心によって時効の起算点をいつまでも引き延ばしうることになり、不法行為に基づく損害賠償請求権については消滅時効の制度は実際上、殆ど無意味になってしまうからである。

また、本件におけるように、加害行為が継続的に存在し、したがって損害も継続して発生する場合には、日々に新たな損害を発生する不法行為があるものとして、消滅時効に関しては、それぞれそれを知った時から別個に時効が進行するものと解されている(大審院連合部判決昭和一五年一二月一四日民集一九巻二三二五頁)。

2  農業被害の消滅時効

農作物は一年又はそれより短期で収穫がなされるのが一般であるから、原告らはいずれも、遅くともその段階で損害の発生を知り得た筈であるし、また、原告らは昭和三五年と昭和四五年の二回にわたり、本件工場の排出する粉塵によって稲作や養蚕が被害を受けたとして被告会社に補償請求をし、被告会社から一部補償金を受領しているのであるから、当然これらの時点で加害者及び被害の原因を知っていたものである。

したがって、農業被害に基づく損害賠償請求権のうち、昭和四五年五月一四日以前のものは、すべて時効により消滅している。

3  家屋被害その他の消滅時効

原告らの主張するような家屋被害が仮に存在したとしても、既に述べたとおり、いずれも遅くとも昭和四四年以前のものであるから、これに基づく損害賠償請求権はすべて時効により消滅している。

また、騒音、排水その他の生活被害等についても、その性質上損害及び加害者を容易に知り得た筈であるから、昭和四五年五月一四日以前のものは、すべて時効により消滅している。

四  抗弁に対する認否及び反論

1  抗弁事実は争う。

2  原告らの反論

(一) 農業経営及び生活全般の破壊という原告らの被った損害は、被告会社の継続的な加害行為に対応して次第に惹起され、現在も進行中の損害であるから、消滅時効は進行していない。けだし、鉱業法一一五条二項は「進行中の損害」は損害額の確定をなし得ないがゆえに時効は進行しないとしたものであるが、この趣旨は、民法七二四条の解釈論としても生かされるべきであって、加害行為が継続し、したがって損害も進行中である本件のような場合には、加害行為が終わった時から時効期間が進行するものと解すべきであるからである。

仮にそうでないとしても、民法七二四条にいう「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」とは、単に損害発生の事実を知るのみでなく、同時に違法な加害行為と損害発生との間に相当因果関係があることまで知ることを要し、かつ、それを加害者に対する損害賠償請求が事実上可能な状況のもとに、それが可能な程度に具体的な資料に基づいて認識した場合をいうものと解するべきである。けだし、民法七二四条の短期消滅時効の立法趣旨は、主として、被害者が損害及び加害者を知った後三年を経過しても損害賠償請求権を行使しない場合には、相手方においても被害者の宥恕又は権利放棄がなされたものと信じ、もはや損害賠償請求権を行使されることはないものと期待するのが一般であるから、その後になって、被害者が突然態度を翻して損害賠償請求をすることは権利者自らが形成した相手方の信頼を破り、一旦回復された法的平和を崩すことになって妥当ではないとの考慮に基づくものであるから、逆に、被害者が右のような状態を自ら形成したというためには、被害者において損害賠償請求権を加害者に対して行使することが現実に可能であり、いつでも行使できる状態にありながら行使しなかったものであることを要するからである。

(二) 本件においては、原告らは以前から農作物被害等につき、それが本件工場の排出する粉塵等によるものであろうとの推測はしていたものの、減収被害や雨漏りの原因などについて何ら科学的データを有していたものではなく、また、農作物被害のうち、いわゆる不可視被害については損害自体も充分認識できなかったし、重金属汚染に至っては本訴提起後はじめて汚染の事実が判明したものであって、科学的データ等により原告らにもある程度被害及び因果関係が明らかになったのは、原告らが前記谷山助教授ら学者に調査を依頼した昭和四八年二、三月ころ以降のことである。一方、被告会社は従来から一貫して自らの責任を否認し続けてきたのであるから、何ら具体的なデータを持たなかった右昭和四八年二、三月以前に訴訟を提起すべきであったとするのは、そもそも無理な要求である。

そして、仮に昭和四八年二月ころから消滅時効が進行し始めたとしても、本訴提起により時効は中断している。

五  再抗弁

被告会社は、本件工場の稼働開始以来、その操業によって本件工場周辺の原告らの居宅や農作物に大きな損害を及ぼしていることを知りながら、本件工場従業員などを使って被害補償を押え付け、公害立証資料を隠し、或いは加害及び損害発生の事実を徒らに否認するなどして、公害反対運動を抑圧分断し、原告らに対して泣寝入りを余儀なくさせてきたものであるにも拘らず、ようやくこれらの困難な状況を乗り越えて本訴を提起した原告らに対し、民法七二四条の短期消滅時効を援用することは、権利の濫用又は信義則違反として許されない。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁事実は否認する。むしろ、被告会社は従前から、地元住民との協力関係の維持に充分意を用いてきたものであり、トラブルの度に、被告会社の法的責任等はさておいて、地元との協調の観点から、迷惑料、見舞金、協力費等の名目で金員を支払うなどして、円満解決に努めてきたものである。

第三証拠《省略》

理由

(書証の成立とその引用について)

本判決中、事実認定の用に供した書証のうち、成立について争いのないものは別紙〔一〕書証目録(甲)、(乙)の「認否」欄に○を付したものであり、成立について争いのあるものについては、その成立について、同目録の「真正に成立したものと認めた証拠方法等」欄記載の各証拠によっていずれも真正に成立したものと認めることができる。

そこで、以下の理由の説示において書証を引用する場合には、書証番号のみを記載するにとどめるものとする。

第一当事者等について

一  当事者

1 請求原因1の事実のうち、別表1及び別表2の1ないし6の「所在地番、地目、地積、工場からの方位、距離」欄記載の各事実中、別紙〔二〕認否一覧表一及び同表二の1ないし6の各該当欄に△又は×とあるものを除いて、その余の事実は当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すれば、右認否一覧表一及び同表二の1ないし6の△又は×とある欄に括弧書きのあるものはその旨、その余は右別表1及び別表2の1ないし6の各該当欄記載のとおりであることが認められる(なお、右各別表及び別紙に「工場からの距離」とあるのは、本件工場の一号煙突と二号煙突の中間を起点としたものである。)。

2 右1の事実(当事者間に争いのない事実を含む。)や、《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

被告会社は、明治一四年五月に設立され、本社を山口県小野田市に置いてセメント製造、販売等の事業を営む株式会社で、昭和五六年現在、全国六か所(但し、昭和四八年の本訴提起当時八か所)にセメント製造工場を擁する我が国でも有数のセメント製造企業であり、本件工場は、昭和七年に現在地の三重県員弁郡藤原町大字東禅寺に創設され、昭和五六年現在、敷地面積約三〇万平方メートル、従業員数約三七〇名(但し、昭和四八年当時約四五〇名)、年産能力約三三〇万トン(但し、昭和四八年当時約三〇〇万トン)の被告会社の主力セメント製造工場のひとつである。

また、原告らは、出生以来、或いは遅くとも昭和三五年より前からの藤原町の下野尻地区又は西野尻地区住民であって、本件工場の北ないし北北東又は北北西約九〇〇メートルないし一二五〇メートルに位置する別表1記載のとおりの居宅(但し、建物の現況には一部変更がある。)に居住し、本件工場の北方(下野尻地区、西野尻地区、石川地区、藤原町大字志礼石新田)の、原告らが所有(家族所有を含む。)或いは借地する別表2の1ないし6記載の田畑で、一家の農業経営の担い手として、家族とともに米、麦、茶、野菜類などの農作物を作り、或いは養蚕等に従事してきたものである。

二  本件工場周辺の地勢等について

1 地形、水系

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

藤原町は、三重県の西北端に位置し、北は岐阜県に、西及び西南は滋賀県に、南及び東は員弁郡北勢町に接し、西を藤原岳、御池岳等の海抜一〇〇〇メートル級の連山からなる鈴鹿山脈、東を海抜五〇〇メートル級の山からなる養老山脈に挾まれ、その山間に、ほぼ南北に発達した海抜約二〇〇メートルの丘陵地と、これを北から南に貫いて流れる員弁川を擁している。

そして、藤原町内では南寄りの位置の、藤原岳の東山麗、員弁川右岸の丘陵地に本件工場が立地し、本件工場の北東側敷地境界線に隣接して石川地区が、その北に下野尻地区、北西に西野尻地区が、これらの更に北側に同町大字志礼石新田が所在し(前記のとおり、石川地区以下に原告らの居住地域、耕作農地所在地域がひろがっている。)、また、本件工場の南側敷地境界線に隣接して東禅寺地区の集落が所在するが、以上の地域及びその周辺は、もともと本件工場以外に目立った産業施設もない、いわゆる山間の農村地帯である。

また、砂川は藤原岳に源を発し、後谷、白谷、中野水路、梅の木谷等の水を集め、西野尻地区、下野尻地区をほゞ西北西から東南東に横切って石川地区付近で員弁川に合流する。その他、藤原岳付近に水源を持つ員弁川支流には、砂川の北側に真川、南側に多志田川、青川等があり、そのうち真川は、大貝戸地区、坂本地区付近から、ほぼ北西から南東にかけて流れ、下野尻地区付近で員弁川に合流している。

(なお、本判決中で引用するその他の地名等の所在位置については、別図1参照)

2 風向

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

藤原町では、本件工場の北北西約二キロメートルに位置する同町役場屋上で継続的に風向の測定を行なっているが、その測定結果のうち、昭和四九年四月から同五二年三月までの三年間の風向を平均して作成した年間及び月別の風配図は別図3のとおりであり、年間を通じての風向は北西ないし北が約五〇パーセント、南東が南々東と東南東を含めて約二〇パーセント、静穏が約二〇パーセントで、季節的には春夏季(四月から九月)はほぼ南東、秋冬季(一〇月から三月)はほぼ北西ないし北北西が主風向である。そして、これを地形との関係でみれば、本件工場を中心にしていうと、風は谷や川の地形(谷や川の方向は本件工場の北方で西の方へやや湾曲している。)に沿い、主として、夏季は西野尻地区、大貝戸地区方向に吹き、冬季は東禅寺地区方向に吹く。

なお、《証拠省略》によれば、本件工場での風向測定(但し、測定結果そのものは証拠として提出されていない。)では、藤原町役場での右測定結果に比し、やや南東及び南々東の風が多くみられる傾向はあるものの概ね同町役場の測定結果と一致しており、また両測定とも年度によりさほどの差異はなかったことが認められるから、右別図3をもって、ほぼこの地域における例年の風向の傾向を示すものと考えて差支えない。

第二加害行為及び被害

一  はじめに

本件は、山間の農村地帯に立地する大規模なセメント製造工場の操業に伴う排煙、排水、騒音などによる周辺住民の被害に関するものであるが、原告らは、本件工場の昭和七年操業開始以来の継続的な稼働全体を問題とし(但し、その請求自体は、昭和三五年から同四九年までに発生した被害に関するものに限っている。)、かつ、本件工場の操業全般から多種多様の被害を被った旨主張しているので、本件工場における関係施設も多種に及び、しかも、これらは本件工場の操業開始以来、幾度か画期的な変遷を経てきている。

そこで、以下に、まず本件工場の創設、稼働の経緯及び周辺住民との関係を概観しておいたうえで、本件工場の施設の全容とその変遷をみておくことにする。

二  本件工場の創設、稼働の経緯と周辺住民との関係

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

1 被告会社は、鈴鹿山脈に連なる藤原岳、御池岳、高室山一帯の埋蔵量数十億トンと推定される豊富な石灰石資源に着目し、これを原料とする大規模なセメント製造工場の建設を企図して、昭和二年ころから、当時の治田村(現員弁郡北勢町治田地区)、東藤原村(現員弁郡藤原町の一部、現在の東禅寺、石川、下野尻、西野尻の本件工場周辺四地区からなる。)などとの間に工場建設の交渉をはじめたが、東藤原村でも、当時、地元に働く場所がなかったことや税収の増加などを見込んで工場建設を歓迎する空気が強く、一部に反対はあったものの、県当局や村長が中心になって誘致をした結果、現在地に本件工場が建設されることとなった。

右交渉の妥結後、被告会社は、物資運搬の足としての三岐鉄道を開設するとともに、直ちに工場建設に着手し、昭和七年一二月の一号キルンの稼働開始により、本件工場が一応完成し、その後、後記三で詳述するように遂次施設を拡充して著しいセメント生産量の増大をはかってきた。

因に、昭和一八年から同四九年までの間の本件工場のセメント生産実績は、別表4の「藤原工場セメント生産高」欄記載のとおりである(このことは当事者間に争いがない。)が、生産高の増加率をみると、国内の景気の動向とよく一致しており、高度経済成長期初期の昭和三四年以降急速に高まって、昭和三七年には昭和三〇年の約二・五倍に当る約一〇二万トンが生産され、いわゆる日本列島改造政策が推進された昭和四七年には昭和三〇年の五倍以上の約二一七万トンが生産されるに至ったが、これは昭和一〇年代の生産高と比べると実にほぼ二〇倍にものぼる。

2 一方、本件工場の立地する東藤原村は、本件工場創設の昭和初期ころには、戸数数百戸程度の稲作と養蚕を主とする寒村であったが、本件工場の稼働開始とともに税収が増加し、他村に先駆けて、村民税の撤廃、児童の数科書や学用品の無料配布などを実施し、周辺の町村から富裕村として羨望の目でみられるまでになった。その後、昭和三〇年には、同村は西藤原、白瀬、立田、中里の四か村との合併により藤原村(更に、昭和四二年に現藤原町)になったが、右合併後も、当時の村税収入の四〇パーセントを事業費という名目で交付を受け、旧東藤原村内の東藤原地区委員会によってこれを管理のうえ道路、河川改修等の公共的事業や旧村の運営費として使用された。その後、藤原村(後に藤原町)は財政状態が悪化し、昭和四〇年ころから再び地方交付税交付団体となり、昭和四五年には右の旧東藤原村内の下野尻、西野尻等四地区への右事業費の交付も打ち切られたが、それでも本件工場による税収は藤原村(藤原町)の歳入の約二、三〇パーセンを占め、本件工場及びその関連企業で働く人も三百名を超えるなど、本件工場との結び付きは極めて緊密であった。

しかしながら、その反面において、本件工場の操業開始後、旧東藤原村をはじめとする本件工場周辺地域は、本件工場から排出されたばいじんをかぶって、環境を著しく汚染されるようになり、後記のように、激甚期には、本件工場周辺一帯の田畑、家屋がセメント粉塵によって灰白色に塗りつぶされるような状態になった。そこで、昭和一七年ころには、北勢町治田地区の住民が屋根瓦の耐用年数低下や農作物被害の補償を求めて被告会社に対して訴訟を提起し(但し、右訴訟は判決に至らずに終了した。)、更に、本件工場の生産施設の拡大によるばいじん排出量の増大に伴い、旧東藤原村などの周辺住民からも養蚕被害を中心とした補償請求が出されるようになり、昭和三五年から同三九年にかけて、被告会社から員弁郡養蚕販売農協連合会や西野尻、下野尻米作組合、旧東藤原村、旧治田村等に見舞金が支払われたほか、その後も相次ぐ周辺住民からの稲作、養蚕被害などの補償請求に対し、被告会社からも一部補償金が支払われるなどの状況が、本訴提起ころまで継続していた。

三  本件工場の主要施設とその変遷

最初にセメント製造の基本工程について説明し、次に、本件工場の施設をセメント製造施設と原料採掘、排水関係施設に分けて、その施設内容と変遷をみる。

1 セメントの製造工程について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

セメントは石灰石と粘土を主原料とし、これを混合粉砕のうえ高温加熱処理(以下「焼成」という。)して焼塊(クリンカ)となったものに石膏を添加し、粉末化した製品で、その製造工程は、次のとおり、おおよそ、原料、焼成、製品・出荷の三工程からなり(セメント製造について、これらの工程があることについては、当事者間に争いがない。)、その性質上、各工程の全般にわたって発塵し、また、稼働音を生じる。

(一) 原料工程

この工程は石灰石と粘土類をそれぞれ粗砕、中砕した後、所定の割合(通常は石灰石一・二に対し、粘土類〇・三)に調合し、微粉砕(微粉砕する際、水を加えて行なう湿式法と乾燥後微粉砕する乾式法とがある。)する工程であり、調合粉砕された石灰石・粘土類は次の焼成工程に送られる。

この工程の主要機器は、原料粉砕機(以下「ミル」という。)、調合機、原料分級機(振動ふるい、回転ふるい)、原料乾燥機(以下「ドライヤ」という。)及び石灰窯であり、その他の施設としては原料堆積場、原料サイロ(湿式法ではスラリータンク)、ベルトコンベア等の輸送系統がある。

(二) 焼成工程

この工程は原料工程から送られた原料を加熱焼成する工程で、例えば横窯式の場合には、横状に設置された円筒形の回転窯(キルンの一種)の上方から原料を連続的に送入し、下方の取出口から燃料(重油、コークスなど)を吹き込んで燃焼させ、これに伴なう熱効果(摂氏一四〇〇ないし一五〇〇度)により原料を化学反応させて半製品のクリンカを生成し、これを冷却するセメント製造工程中最も重要な工程であり、冷却されたクリンカは、次の製品・出荷工程に送られる。

この工程の主要機器は、キルンとクリンカ冷却機(以下「クーラ」という。)であり、その他の施設として輸送系統がある。

(三) 製品・出荷工程

この工程は冷却されたクリンカに少量の石膏を添加し、微粉砕して製品のセメントを生成し、これをサイロに送ったうえ、品質検査の後、袋詰又は粉末のまま貨車、トラック、船舶等で出荷する工程である。

この工程の主要機器は、製品粉砕機である微粉砕用のセメントミルと分級機(回転ふるい)であり、その他の施設としてはサイロ、パッカ(袋詰機)やエアスライド等の輸送系統がある。

(なお、以上の工程については別図2参照)

2 セメント製造施設(殊にキルンと防塵施設)について

(一) 本件工場に別表3の施設があることとその構造、使用燃料、用途、設置年月日及び本件工場のセメント生産能力の推移については、当事者間に争いがない。

(二) 右の当事者間に争いのない事実や《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 操業開始時から昭和二五年まで

イ この時期は、一号及び二号キルンにより湿式法が採られていたが、これは、原料の石灰石及び粘土類を調合機で調合し、これに水を加えたうえ、ミルで粉砕し、泥漿状にして真空吸引式のフィルターを通し、水分を二〇パーセント程度に減少させたうえでキルンにより焼成する方式で、年産能力は約一七万トンであった。

なお、キルンからの燃焼排気は摂氏約六〇〇度の高温であるので、余熱ボイラに導いて自家発電に利用された(この発電方式は後記SPキルン以外のキルンに共通している。)。

ロ 焼成工程のキルン内で乾燥された原料微粒子の一部は、浮遊して(これが発塵の主な原因である。)燃焼排気に混入し、前記余熱ボイラに導かれてボイラ水管室に入り、沈塵室を経て最終的には、高さ約七〇メートルの一号煙突から排出された。

ハ この時期は、一号及び二号キルン排ガス集塵用として沈塵室が設けられた(但し、水管室にも事実上の防塵効果がみられた。)ほか、各種輸送系統の一部にバッグフィルタが設けられた以外には、格別防塵施設は施されていなかった。

(2) 昭和二六年から同三三年まで

イ この時期は、終戦後の国内復興のためセメントの国家的需要が増大した時期で、本件工場においても、三号及び四号キルンが増設されて稼働を開始したが、ここにおいて用いられた製造法は、一号及び二号キルンに用いられたのと同じ湿式法で、これにより年産能力は約五〇万トンに増加した。

ロ この時期になると、集塵機等の防塵設備が施されるようになり、昭和二六年の三号キルン設置の際には同キルン排気用にサイクロン式集塵機一基(これによって除塵した後、既設の沈塵室に導入された。)が、昭和二九年の四号キルン設置の際には、これにコットレル式電気集塵機(以下「EP」という。)一基(四号EP)が付設されるとともに、既設の一号ないし三号キルンにも、従来の沈塵室、サイクロン式集塵機に代えてEP各一基づつ(一号ないし三号EP)がそれぞれ設置され、排気用の煙突も三号及び四号キルン排気用に既設と同型の二号煙突一基が増設されたほか、ドライヤ、ミル、各種輸送等の系統の一部に、バッグフィルタ等の設置、増設が行なわれた。なお、EPは、粉塵に電荷を与えるなどしてガス中の粉塵を分離捕集するもので、一ミクロン以下の微少粒子でも集塵することができる高性能の集塵装置である。

(3) 昭和三四年から同四四年まで

イ いわゆる高度経済成長期に入って国内のセメント需要が飛躍的に増加したのに伴い、生産技術の改良革新が必要とされた時期で、被告会社においても新しいセメント焼成法である改良焼成法が開発され、本件工場に既設されていた前記三号及び四号キルンにもこの製法によるべく改造が施こされた。

ロ 右改造工事は昭和三三年八月に着手され、昭和三四年六月に三号キルン、翌七月に四号キルンが完成して稼働が開始されたが、これによって焼成工程の所要熱量は低減され、焼成時間も大幅に短縮されるところとなり、生産能力も約二〇〇万トン(昭和四〇年ころ)と飛躍的に向上した。

ハ この製法は、従来の製法が原料の石灰石と粘土を調合して微粉砕したものを一括してキルンで焼成するのに対し、原料工程でまず石灰石のみを石灰窯で焼成して生石灰とし、これを粉砕したうえ、別途粉砕調合された粘土類と調合してキルンで焼成するもので、原料工程での加水がない、いわゆる乾式法のひとつである。

ニ このような改良焼成法への転換に伴い、石灰石のみの焼成のための石灰焼成窯(昭和三四年五月一号ないし五号石灰窯、昭和三五年一〇月六号石灰窯、昭和四二年二月七号石灰窯が各設置された。)、石灰石水洗設備、付属ドライヤ、ミル類が新設されたほか、三号及び四号キルンクーラが据え替えられ、原料サイロも増設された。

ホ ところで、改良焼成法では、発塵施設として石灰窯系統が加わるうえに、キルン一基当りの焼成量の増加に伴う発塵量の大幅な増大がみられたところから、防止施設の強化、拡充が図られ、キルン関係については、昭和三七年三月、キルン排ガス集塵用に五号EPが増設され、これを既設の設備とパイプで連繋して計五基のEPが連続稼働するよう設備の強化が図られるとともに、キルンクーラ排ガス集塵用に計三基のEP又はサイクロン式集塵機が、更に昭和三九年三月にもキルンクーラ排ガス集塵用EP一基が設置され、また、石灰窯関係についても、昭和三六年三月に六号石灰窯クーラの排ガス集塵用サイクロン式集塵機一基が、次いで昭和三九年三月にも、六号石灰窯排ガスの集塵のため、それまでのスプレー式沈塵室による集塵に代えてEP一基が各新設されたほか、昭和四二年二月に新設された七号石灰窯には当初からサイクロン式集塵機一基が付設された。

(4) 昭和四五年以降

イ 昭和四三年以降の景気の回復に伴なう国内需要の増加によって、被告会社でも昭和四五年七月に本件工場に五号キルンが増設されたが、ここにおいて用いられた製法は、当時最新鋭のサスペンション・プレヒーター方式(SP方式)で、従来の方式が原料を直接キルンに送入したのに対し、キルンの余熱を利用して予め加熱を行なうもの(即ち、SPサイクロンの上部から原料を送入し、下部からキルンの排気を導入して加熱分解してキルンに送るもの)で、キルンに入る前に予め加熱されて摂氏約一〇〇〇度になっているので、キルンの熱負荷を減じ、生産効率の向上が図られている。これによって年産能力は約三〇〇万トンになり、本件工場は被告会社の中でも最大規模の工場となった。

ロ 右五号キルンは、従来の設備とは切り離された独立の設備で、設置とほゞ同時に同キルン及びクーラの排ガス集塵用にEP、マルチクロン等の集塵機四基が、排ガス排出用に専用の高さ七〇メートルの五号煙突が、更に、自家発電用のボイラ及び排気煙突が各付設されたほか、インパクトドライヤ、原料ミル、サイロ等の系統にはIDサイクロン等の防塵施設が設置された。

ハ そしてその後、昭和四六年五月から同年七月の間に、前記一号ないし五号EPの集塵率を向上させるため、従来の機械的整流器からシリコン整流器に取替えるとともに全コットレル煙道を連繋して共通煙道としたほか、粘土ドライヤEP用整流器の増設、FOCロートクロンの新設など相次いで設備強化が行なわれ、次いで昭和四七年一〇月にも四号キルン排ガス集塵用にEP一基が増設され、更に昭和四八年一二月には、従来放置されていた一号ないし五号石灰窯の防塵対策に着手され、石灰窯共通EP一基(六号及び七号石灰窯の集塵にも利用された。)が設置され、排ガスの排出も高さ五〇メートルの共通煙突一基ですべてを賄うようにした。

3 その他の施設について

(一) 原料採掘関係施設

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

本件工場のセメント原料採掘場は、次のとおりである。

(1) 藤原鉱山

イ 藤原鉱山は、藤原町大字西野尻一七六〇番の二などに所在する本件工場の石灰石採掘場で、昭和七年に出鉱を開始して以来、順次採掘範囲をひろげ、昭和五〇年当時の採掘面積は約三八〇〇アールで、その一部が砂川の上流域を形成している。

ロ なお、石灰石の採掘方法は、当初は、当時一般的にとられていた露天傾斜面採掘法であったが、昭和二六年ころからグローリホール法に変えられた。この方法は、坑道とこれにつながる竪坑を開さくし、開口した竪坑を中心にして漏斗状に採掘し、鉱石は竪坑と坑道を経て搬出される方法であり、採掘の進行による切羽の拡大に伴いグローリ漏斗が拡大し、採掘された石灰石はすべてこの漏斗の中に落ち込むようになっている。

更に、昭和三八年ころから、採掘方法が階段採掘法(ベンチカット法)に変えられたが、この方法は数段の水平なベンチでクローラ・ドリル、リッパ付ブルドーザ等の機械力によって採掘する方法であり、採掘した石灰石はグローリホールに落ち、竪坑と坑道を経て搬出される。

(2) 砂川粘土山

砂川粘土山は、藤原町大字西野尻字白谷九九三番六および同番八に所在する本件工場の粘土採掘場のひとつで、昭和四三年に採掘を開始し、採掘面積は約二五アールで、砂川の上流、白谷と後谷の合流点にある。

(3) 横野粘土山

横野粘土山は藤原町大字東禅寺字横野一六六三番の三二ほかの本件工場の西に所在する本件工場の粘土採掘場のひとつで、昭和四〇年八月に採掘を開始し、昭和五〇年当時の採掘面積は約六三〇アールである。

(二) 排水関係施設

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 工場用水の排水

イ 本件工場は、昭和七年の操業開始以来、工場用水として員弁川の伏流水をポンプアップし、これを貯水池に導いて用いているが、昭和三九年からは冬期の灌漑用水不要時に限り東禅寺土地改良区の用水(東禅寺用水、多志田川表流水)を取水して使用している。工場用水は、ボイラ用水、機器冷却水、石灰石水洗用水等に使用され、使用量は毎時七〇〇トン程度で、使用後、そのうち通常毎時二七〇トン程度が砂川排水口から中野水路(用水路)に排水され、残りは他の排水口から梅の木谷等に排水される。

ロ 沈澱池等

昭和三四年の改良焼成法の採用に伴い、石灰石の水洗水処理のために現田野溪沈澱池の南側に旧沈澱池が設置され、石灰石の水洗水を一旦旧沈澱池に導入したうえで、その上澄水が梅の木谷を通して排出された。その後、田野溪沿いの用地に、昭和三七年第一沈澱池、昭和四二年第二沈澱池がそれぞれ開設された(以下、両沈澱池を総称して「田野溪沈澱池」ともいう。)のに伴って右旧沈澱池は廃止され、以後、昭和四五年までは第一、第二沈澱池の双方を、昭和四六年初めからは両沈澱池を交互に使用して、その上澄水を砂川排水口から中野水路に排出されるようになった(但し、第一沈澱池は昭和五一年に廃止された。)。

(2) 原料採掘関係施設の排水

藤原鉱山の雨水は、その大部分が砂川、多志田川に、砂川粘土山の雨水は砂川に、横野粘土山の雨水は前記田野溪沈澱池を経て中野水路に流入する(但し、昭和四八年以降、その一部を東禅寺地区側の下出羽谷に流すよう流路が変更された。)が、藤原鉱山では坑外に貯水槽を設置し、前記ベンチカット法による採掘によってできたグローリホール内に集った雨水を一旦右貯水槽に入れたうえ、沈澱池を経て排水しており、横野粘土山でも、排水管を敷設して雨水を一旦田野溪沈澱池に導いたうえで排水するようにされている。

四  本件工場から排出されるばい煙による被害について

1 本件工場によるばい煙の発生と排出状況

(一) はじめに

大気汚染防止法(昭和四三年六月一〇日法律第九七号)二条は、大気汚染の原因となる物質のうち、同法の規制の対象となるばい煙、粉じん等につき定義し、ばい煙については同条一項で、

一  燃料その他の物の燃焼に伴い発生する硫黄酸化物

二  燃料その他の物の燃焼又は熱源としての電気の使用に伴い発生するばいじん

三  物の燃焼、合成、分解その他の物の処理(機械的処理を除く。)に伴い発生する物質のうち、カドミウム……鉛その他の物質で政令に定めるもの

と定め、粉じんについては同条四項で、物の破砕、選別その他の機械的処理又は堆積に伴い発生し、又は飛散する物質をいうと定めている。

このうち、「ばいじん」と「粉じん」が定義上区別されているのは、それぞれの発生態様の相違によって、発生施設、発生物質の性状が異なるので、これに対する規制方式及び規制基準も当然異なったものになるためであると解される。

本件においては、以上の各物質のうち、セメント製造の過程で発生し、煙突から大気中に排出されるばい煙(ばいじん、硫黄酸化物、重金属等がこれに含まれる。)とともに、セメント原料の破砕、選別又は堆積等に伴って発生し、飛散する粉じんについても問題とされており、《証拠省略》によれば、本件工場には、後記のばい煙関係施設のほかにも、原料等の堆積場、ミル、ふるい、ベルトコンベア等、多くの粉じん発生施設が存在することが認められるが、《証拠省略》によれば、その多くは屋内設備であるか、又はカバー等で密閉されており、或いは水洗処理等により水分が付着しているため外部に飛散しにくい(更にバッグフィルタ等で適宜防塵されている。)うえ、外部に洩れ出た粉じんも、粒子が比較的大きく、また、ばい煙のように高煙源から排出されるものでもないことが認められることに照らせば、発生した粉じんの大部分は、本件工場の敷地内ないしは敷地境界線の近辺にとどまり、原告らの居住地域、耕作農地所在地域まで到達することが殆どなかったことは明らかであるから、原告らの本訴請求内容に照らし、本件においては、一応これを考慮の外に置いても差支えないものと考える。

そこで、以下に、本件工場において発生し、排出されるばい煙中に含まれるばいじん、硫黄酸化物、重金属のそれぞれについて、その発生と排出の状況を述べる。

(二) ばいじんについて

(1) 関係施設等

イ 本件工場におけるばいじん発生施設が別表3の各施設、即ち、キルン五基(一号ないし四号キルン、SPキルン)、石灰窯七基(一号ないし七号石灰窯)、キルンクーラ五基(一号ないし五号キルンクーラ)、ドライヤ三基(インパクトドライヤ、FOCドライヤ、ロータリードライヤ)、ボイラ二基(七号石灰窯用重油加熱ボイラ、自家発電用ボイラ)にほゞ限られることは、これまで述べてきたところや《証拠省略》に照らして明らかである。

ロ また、右各施設から発生したばいじんが一号、二号煙突、五号煙突等を通じて大気中に排出されること及びばいじんの発生態様、各施設の設置の経緯、防塵施設の設置状況等についても、既に詳述したところである。

(2) ばいじん排出量とその経年的推移

イ 本件工場のばいじん排出量とその経年的推移については、これを実際に測定した資料に乏しく、殊に、昭和四五年以前は実測値が殆ど存在しないため、その定量的かつ一義的な把握は殆ど不可能であり、本件に顕われた各種のデーターに基づいて可能な限りで推定を試みるにとどめざるをえない。

ところで、原告らは、その一方法として次のような推定方法を主張する。即ち、これは基本的には、

① 昭和一八年から同四二年、昭和四四年、昭和四五年については、本件工場のセメント年生産高(トン/年)とキルンによるセメント(正確にはクリンカ)生産一トン当りの推定ばいじん発生量から本件工場における全キルンの年間ばいじん発生量を割り出し、更に、昭和三四年以降は後年の実測値に基づく石灰窯系統の推定ばいじん発生量を加え、これらからEP等の防塵施設による推定ばいじん捕集量を控除することにより、

② 昭和四三年及び昭和四六年から同五〇年は、本件工場の全ばいじん発生施設(但し、昭和四三年はキルン及び石灰窯系統のみ)における防塵処理後のばいじん濃度と排ガス量につき一部実測値があるので、これに基づき、基本的には、

ばいじん濃度(g/Nm3)×排ガス量(Nm3/h)

の算式により、

本件工場のばいじん排出量とその経年的推移を推定しようとするものである(推計過程の詳細別表4の〔備考〕参照)。

右の推計において用いられた基本的手法自体は、被告会社も明らかに争わないところであるし、また、本件における限られた資料の中においては右手法にも一応の合理性を認めることができ、他にこれに代りうる適切な手法も見当らないところであるので、本件工場のばいじん排出量とその経年的推移を推定するためのひとつの方法として、右手法を使用することも許されないではないものと解される(もっとも、右①及び②のうち昭和四三年の推定方法は、厳密には、本件工場におけるばいじん発生施設中、キルンと石灰窯系統のみに関するものであるが、原告らの主張自体に照らしても明らかなとおり、本件工場から排出されたばいじん中、キルン及び石灰窯系統から排出されたものがその大部分を占める(別表4の付表によると、昭和四六年以降の推定量ではあるが、キルン及び石灰窯系統で八〇パーセント以上を占めている。)のであるから、右①及び②のうち昭和四三年においては、その推定ばいじん排出量が必ずしも全量を示しているものではないことに留意しておけば足りる。)。

ロ しかして、被告会社は、基本的には原告らの主張する右の推定方法を前提としながらも、その細目にわたっては、各キルンの推定ばいじん発生量、各防塵施設(EP等)の推定集塵率、各ばいじん発生施設の稼働率等を修正し、更に各データに水分補正、温度補正等を施す必要がある旨主張し、別表20にその修正計算の結果を示しているところ(推計過程の詳細は同表の〔備考〕参照)、前認定のセメント製造施設、殊にキルンと防塵施設の変遷の状況や《証拠省略》を総合すれば、原告ら主張の基本的手法を前提とする限り、ほゞ被告会社主張のとおりの修正を施したうえでこれを使用するのが相当であると認められる。

そこで、当事者間に争いのない本件工場のセメント生産能力及び生産量、《証拠省略》により、右推定方法に基づいて本件工場のばいじん排出量を推計すると、ほゞ前記別表20の「推定粉塵排出量」欄記載のとおりになる。

なお、右の推計、殊に昭和四五年以前のそれは、その基礎とした数値の大部分が被告会社によって公開された乏しい資料に基づいたものであって、資料選択における公平及び公正を充分には期し難い性質のものであり、《証拠省略》によっても、ばいじん濃度の測定値等は測定毎の変動が極めて大きいことが認められ、更に、推計方法自体のもつ限界性に照らし、本件工場のばいじん排出量そのものの把握のために必ずしも充分な客観性を有するものでないことはもちろんであるので、本件工場におけるばいじん排出量の絶対量については、セメント製造施設の変遷とセメント生産量の増大の状況本件工場周辺の汚染状況や原告ら周辺住民の生活体験にも充分な配慮を払いつゝ、これを総合的に判断すべきものであって、右推計結果は主として、本件工場から排出されたばいじん量の経年的推移を知るための、ひとつの目安として用いるのが相当である。

ハ そこで、前記推計の結果に基づき、本件工場から排出されたばいじん量の経年的推移について、本件工場におけるセメント製造施設及び防塵施設等の変遷と対比しながらこれをみると、本件工場からのはいじん排出量はセメント生産量と防塵施設の双方に係わっており、昭和一八年から同二五年までの一号及び二号キルンのみの時期には約六〇トン/月から一九〇トン/月、三号及び四号キルンが相次いで増設された昭和二六年から同二八年は約二五〇トン/月前後であったのが、昭和二九年の一号ないし四号キルンに対するEPの設置によって五〇トン/月程度に減少した。ところが、昭和三四年に三号及び四号キルンが改良焼成法に転換されたのを機に、約二一〇トン/月から二三五トン/月と一気に四倍以上もの急増を示し、その後EPの増強等により若干減少したものの、昭和四五年のSPキルン設置によって再び一六〇トン/月程度にまで増加した。その後、本件工場では、先に述べたように、昭和四六年から整流器の取替によるEPの集塵率の効上、EPの増設などの防塵対策に本格的に取り組み、昭和四八年には、これまで放置されていた石灰窯(一号ないし五号石灰窯)にもEPを設置するなどしたため、ばいじん排出量も次第に減少し、殊に昭和四八年以降は五〇トン/月前後にまで急減していったものである。そして、以上のようなばいじん排出状況の推移自体は、原告ら各本人尋問の結果などから窺われる原告ら周辺住民自身の生活体験とも、よく一致するところである。

(三) 硫黄酸化物について

(1) 関係施設等

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

イ 本件工場における硫黄酸化物発生施設は一号ないし五号キルンクーラを除く別表3記載の各施設であり(一号ないし五号キルンクーラは、燃料等の燃焼を伴わないため、硫黄酸化物を全く排出しない。)、右各施設の燃料の燃焼に伴い発生した硫黄酸化物は、前記ばいじんとともに、一号、二号煙突、五号煙突などから大気中に排出される。

なお、セメント製造工程には、燃料及びセメント原料により硫黄分が持ち込まれるが、セメント原料に由来するものは僅少であり、ほゞ全量が燃料中の硫黄分に由来するところ、燃料としては、一号ないし五号石灰窯がFOCコークス(硫黄含有率約二・四五パーセント)を使用しているほかは、すべてC重油(同約二・八五パーセント)を使用している(右各施設の使用燃料については当事者間に争いがない。)。

ロ 一方、硫黄酸化物の排出防止施設としては、昭和四八年に七号石灰窯重油加熱ボイラに設置されたものがあるほか、格別の施設は設けられていないが、一号ないし四号キルン及び石灰窯系統では、セメント焼成工程自体の事実上の脱硫作用により、発生した硫黄酸化物の相当部分が除去される。即ち、燃料により持ち込まれた硫黄分は、キルン及び石灰窯の焼成過程において硫黄酸化物(主として亜硫酸ガス)になるが、これはセメント焼成中に原料の石灰分やアルカリ分と反応し、固体の硫黄化合物となってクリンカ中に吸収され、或いは、ばいじんに吸着されたものも集塵機等で捕集除去されるため、系外(大気中)に排出されるのは発生した硫黄酸化物の一部に過ぎない。因に、排煙脱硫法の一方法としての石灰法が、現在電力、鉄鋼等の産業において使用されているのも、この理によるものである。

(2) 硫黄酸化物排出量とその経年的推移

イ 昭和四六年以降の排出量

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

本件工場は、昭和四六年以降、継続的に本件工場内の全硫黄酸化物発生施設の硫黄酸化物排出量(Nm3/hを測定しているが、その結果は、ほゞ別表21の「排出量」欄記載のとおり(但し、各測定結果の年平均値で示したもの)であり、この数値を用い、大気汚染防止法施行規則三条に基づいて同法の排出基準による排出許容量を算出したものが、同表「排出許容量」欄記載の数値である。

右別表によると、昭和四六年以降の本件工場における全硫黄酸化物発生施設の硫黄酸化物総排出量(但し、年平均値)は、昭和四六年二七〇・七Nm3/h、昭和四七年二六一・八Nm3/h、昭和四八年二〇五・三Nm3/h、昭和四九年一八〇・七Nm3/hであり、これを大気汚染防止法の定める排出基準と比較すると、その約六分の一から七分の一にとどまっていることがわかる。

ロ 昭和四五年以前の排出量

昭和四五年以前における本件工場からの硫黄酸化物排出量については、これを実測した資料が殆ど存在しないが、次のⅠないしⅢの各事実を総合すれば、多くとも、昭和四五年七月のSPキルン稼働開始ころから昭和四六、七年ころまでの硫黄酸化物排出量を超えていなかったものと推認することができる。即ち、

Ⅰ 前記別表21によると、二号煙突(三号及び四号キルン排ガス用)及び自家発電用ボイラからの硫黄酸化物排出量は、他の硫黄酸化物発生施設に比し著しく多量で、本件工場から排出されるうちの大部分を占めている(本件工場の硫黄酸化物の総排出量中、例えば昭和四六年は二号煙突が約五四パーセント、自家発電用ボイラが約三八パーセントを、昭和四七年は、二号煙突が約五七パーセント、自家発電用ボイラが約三九パーセントを占めている。)。

Ⅱ 右自家発電用ボイラが、昭和四五年七月のSPキルン設置の際に、同キルン関係施設の発電用ボイラとして付設された(他のキルン系統の発電は余熱ボイラによるキルンの燃焼排気利用によっていた。)ことは先に述べたとおりであるから、それ以前は二号煙突(三号及び四号キルン)に並ぶ主要な硫黄酸化物排出源が存在しなかった。

Ⅲ 《証拠省略》によれば、改良焼成法(三号及び四号キルンと石灰窯系統)によるセメント生産量は、SPキルンの稼働開始後も、昭和四六、七年ころまでは余り減少しなかった(但し、その後次第に、脱硫率の高いSPキルンによる生産比率が増加している。)ことが窺われるから、昭和四五年以前の三号及び四号キルンの燃料使用量、したがって硫黄酸化物排出量も昭和四六、七年ころに比し顕著に多かったとまではいえない。

以上のとおりであって、他に前記推認を左右するに足りる証拠はない。

ハ もっとも、原告らは、前記の脱硫作用等に基づく、本件工場の硫黄酸化物発生施設全体の脱硫率の単純平均は約六四パーセントで、燃料中の硫黄分のうち残りの約三六パーセントは硫黄酸化物として大気中に排出されていたとし、また、改良焼成法の脱硫率は僅かに約一三パーセントと他の湿式法キルン、SPキルンに比し極めて低く、改良焼成法の採用された昭和三四年からSPキルンが設置された昭和四五年七月までの約一二年間は、脱硫効果の著しく劣る改良焼成法によって多量のセメントが生産されていたのであるから、特に多量かつ高濃度の硫黄酸化物が大気中に排出されていた旨主張する(以上の原告ら主張の脱硫率については別表7参照)。

しかして、《証拠省略》を総合すれば、本件工場における主要な硫黄酸化物発生施設の脱硫率及びその平均は、ほぼ別表22(その算出過程の詳細は同表の〔備考〕参照)のとおりと推定するのが相当であり、これによると改良焼成法の脱硫率は約八六パーセントと湿式法(一号及び二号キルン)等に比し特に遜色はなく、また、本件工場の硫黄酸化物発生施設全体の脱硫率も約八二パーセントにのぼるのであるから、原告らの右主張が本件工場の硫黄酸化物発生施設の脱硫率を過少に推計したものであることは明らかである。殊に、《証拠省略》に照らせば、原告らの改良焼成法の脱硫率に関する推計は、改良焼成法においては原料の石灰石がキルンに送入される前に既に石灰窯で仮焼されており、石灰窯系統と三号及び四号キルンでひとつの焼成工程をなしているのであるから、その脱硫率を算定するためには、生原料である石灰石をベースに、石灰窯で持ち込まれた燃料中の硫黄分と三号及び四号キルンで持ち込まれた燃料中の硫黄分を通じての全体の脱硫率を計算しなければならないことを看過し、三号及び四号キルンのみに関して脱硫率を問題としたもの(もっとも、三号及び四号キルンのみに関しても、右別表22のとおり約六二パーセント程度とみられる。)であって、これをもって、湿式法やSPキルンによって焼成する場合の脱硫率と直接に比較するのが妥当といえないことは明らかである。

してみれば、原告らの前記主張はいずれも、その前提を欠くことになり、失当であるというほかない。

(四) 重金属について

(1) 関係施設等

《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

イ ばい煙中の重金属は、前記ばいじん中に含有又は付着して排出されるのが通常であるから、その発生施設及び防止施設も、前記別表3のばいじん発生施設(殊に各キルン、石灰窯系統とその防塵施設)とほゞ同一である。

ロ ばいじん中に含有される重金属は、本件工場でセメント製造の原料として使用される石灰石、粘土類、鉄原料、石膏、珪石などに由来する。即ち、これらの原料はいずれも、カドミウム、鉛、亜鉛、銅などの重金属を含有し、その含有率は原料の種類、品質、性状等により異なるが、これらの原料を混合したペレット(混合原料)中の重金属濃度は、名古屋大学理学部の河田昌束らの試算によると、本件工場では、カドミウム〇・二ppmないし一・七ppm、鉛四ppmないし六六ppm、亜鉛五〇ppmないし五五〇ppm程度であるとされており、これらの含有重金属がセメント製造工程、殊に焼成工程において濃縮された状態で、ばいじんとともに大気中に排出される(因に、右河田らは、本件工場における右の濃縮率を、カドミウムが約二〇倍から二〇〇倍、鉛が二〇倍から三〇〇倍、亜鉛が三倍から三五倍であると推定している。)。

ハ 右の重金属濃度の濃縮機構は、本件工場のみならず、他のセメント製造工場においても等しくみられる現象であるが、右河田らはそのメカニズムにつき、次のように説明する。即ち、キルンに送入された原料中の含有重金属はキルン内の酸化作用によって酸化物となるが、これは揮発性が高いため高温加熱処理により蒸発、気化し、これがキルン出口、EP等を経て煙突から排出される過程で再び冷却して微細な固化物になり、一部はそのまゝ、一部はEP等に捕捉されにくい微少なばいじんに付着した状態で大気中に排出される。一方、セメントの主成分である生石灰や二酸化珪素は揮発性が低いため、一部が物理的なダストとして大気中に排出されるほかは生産工程の系外に出ることはないため、大気中に排出されるばいじん中の揮発性重金属の含有率は原料のそれよりも相対的に高まることとなる。基本的には、以上のようなメカニズムで、カドミウム、亜鉛、鉛などの揮発性重金属が濃縮排出される(但し、銅は非揮発性重金属であるため濃縮率は必ずしも高くない。)というのである。

(2) 重金属排出量とその経年的推移

右(1)の事実に前認定の本件工場のばいじん排出量の経年的推移を合わせ考えれば、本件工場は、その操業開始以来、ばいじん排出量の推移にほゞ沿って、前記のように濃縮された重金属を排出し続けてきたものと推認することができる(因に、《証拠省略》によれば、本件工場が昭和八年から同四八年までの間に使用した主要原料の総量は、石灰石約三〇六〇万トン、粘土約六九五万トン、珪石約二〇〇万トン等の多きにのぼっている。)。

2 ばい煙による原告らの居住地域、耕作農地所在地域の汚染状況

(一) 大気汚染等について

(1) ばいじんについて

イ 降下ばいじん等の測定結果

《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

Ⅰ 三重県等は、昭和四六年一月以降、本件工場周辺(東禅寺地区、石川地区、西野尻地区、下野尻地区等)において降下ばいじん量を継続的に測定しているが、その測定値のうち、昭和四八年二月以降の東禅寺、石川、西野尻の三地区における測定結果は別表26(但し、東禅寺地区については、数か所での測定値中、最大値を示した。)のとおりである。また、浮遊粉じんについても、昭和四五年七月以降、三重県等が本件工場周辺で測定したデータが散見される。

Ⅱ 更に、本件工場は、昭和四六年一月以降、下野尻地区、西野尻地区内の原告らの居宅又は耕作農地に比較的近い測定点(右各地区では四か所)における降下ばいじん量を継続的に測定しているが、その測定結果は別表6のとおりである。ところで、この測定値中、昭和四六年一月から同四八年五月までの降下ばいじん量は不溶解分のみの測定値であるが、名古屋大学工学部の西口毅は、その期間の降下ばいじん総量を推測するために、原告らの居宅に最も近い同表①の測定点(藤原町大字下野尻五四三番地)における同年六月以降の測定値の降下ばいじん総量(溶解分+不溶解分)と不溶解分の相関関係を調べ、最小自乗法によるとそれは勾配二・四三(即ち、降下ばいじん総量=不溶解分×二・四三)になるとしており、これに従うと、同年五月以前の降下ばいじん総量は、昭和四六年約七・三g/m2/月ないし四六・二g/m2/月、昭和四七年約四・九g/m2/月ないし三一・六g/m2/月、昭和四八年の一月から五月約四・九g/m2/月ないし一四・六g/m2/月となる。

Ⅲ なお、昭和四六年以降の降下ばいじん総量は、三重県の測定においても、本件工場の測定においても、その測定値の大部分がこの地域における自然的(非汚染)降下ばいじん量(多くとも五g/m2/月を超えないものと推測される。)を大きく上廻っており、また、浮遊粉じんについても、三重県条例の規制値(最大着地濃度一五分値〇・八mg/m3)を上廻る測定値がしばしば得られた。

もっとも、降下ばいじん及び浮遊粉じんとも、昭和四八年以降次第に減少する傾向がみられたが、それでも、昭和四八年一〇月東禅寺地区で約九三g/m2/月という右の自然的降下ばいじん量のほぼ二〇倍にも及ぶ測定値がみられるし、石川地区でも同年六月約三二g/m2/月、西野尻地区でも昭和四九年九月二八g/m2/月の測定値がみられるほか、昭和四八年には、三重県が、東禅寺地区などで、浮遊粉じんにおいて現行の環境基準(一時間値の一日平均値〇・一mg/m3、一時間値〇・二mg/m3)に数倍し、降下ばいじんにおいて四日市市における昭和四七年の最大降下ばいじん測定点である同市港湾局の一・七倍にものぼる測定値が得られたとして、本件工場に対して強い改善勧告を出した経緯もあるなど、なお相当な量のばいじんが降下又は浮遊していた。

ロ 汚染の特徴と原因

Ⅰ 《証拠省略》によれば、三重県は昭和四九年四月から一二月の間、本件工場を中心とした広範囲の地域で降下ばいじん量の分布調査をしたことが認められ、その調査結果と右イの事実によれば、本件工場周辺の汚染状況には次のような特徴があることが認められる。

(イ) 降下ばいじん量が前記自然的降下ばいじん量を上廻り、したがって人為的汚染に曝されていると考えられる地域は、前認定の当地域における主風向(春夏季はほぼ南東、秋冬季はほぼ北西ないし北々西)を中心とした一定の幅に沿って、本件工場から半径約三キロメートル以上に及び、原告らの居住地域、耕作農地所在地域もほゞこの範囲に含まれる。

(ロ) 汚染程度は、概ね、本件工場からの距離が遠くなるに従って漸減し、また、右主風向の方向から離れるほど軽度となる。

(ハ) 季節的には、各地域とも右主風向の影響下にある期間中が汚染程度も重度であり(原告らの居住地域、耕作農地所在地域では春夏季の四月から九月ころが重度である。)、また、経年的には、前認定の本件工場におけるばいじん排出量の量的推移にほぼ一致した推移を示している。

Ⅱ 以上の汚染の特徴に、前記第一、二の地形、風向等を合わせ考えれば、以上のような本件工場周辺地域の汚染は、本件工場の煙突から排出されたばいじんが主として風により周辺に運搬、放散されることによってもたらされたものと推認することができ、また、前記自然的降下ばいじん量及び当地域においては本件工場のほかに顕著な発塵施設が存在しない事実(弁論の全趣旨によって認める。)に照らせば、本件工場周辺におけるばいじんの降下のうち、自然的降下ばいじん量を超える殆どの部分が本件工場の寄与にかかるものということができる。そして、《証拠省略》によって認められる本件工場周辺の屋根瓦及び雨樋堆積物の化学組成が製品セメントの化学組成に酷似している事実も、以上の認定を裏付けるものである。

ハ 昭和四五年以前の汚染状況

本件工場周辺地域の昭和四五年以前のばいじんによる汚染状況を実際に測定した資料は殆どみられないが、右イ、ロの事実に前認定の本件工場からのばいじん排出量の経年的推移を合わせ考えれば、昭和四五年以前においても、本件工場から排出されたばいじんの量的推移にほぼ対応した汚染状況であったことは容易にこれを推測できるところであって、これによれば、本件工場の周辺地域は、昭和四六・七年ころの汚染程度とほぼ同一か、時期によってはその数倍にも及ぶ激甚な汚染に曝されていたものということができる。そして、その激しさは、《証拠省略》中の「粉塵は昭和三三、四年ころから特にひどくなり、南風の日には風に向かって自転車をこいでいると粉塵で目があけていられないくらいだった。」、「まるで初雪が降ったように屋根瓦に粉塵が積もった。」、「夜、職場からの帰りなどに、雪の降った様に着物に粉塵が付いた。」などという供述、《証拠省略》の新聞記事中に、周辺住民の話として、「工場から半径五キロ以内の田畑、家屋は粉塵で真っ白になった。」、「夜間、道路を走っているとライト目がけて粉塵が小雪のように降ってきた。」などと報道されていること及び後記の家屋等の被害状況によっても、充分これを窺うことができる。

(2) 硫黄酸化物について

イ 硫黄酸化物の環境濃度

《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

Ⅰ 二酸化鉛法(mg/日/一〇〇cm2)による測定結果

三重県は、昭和四八年二月ころから、本件工場周辺(東禅寺地区、石川地区、西野尻地区、下野尻地区等)の比較的広範囲の測定点において、二酸化鉛法を用い、硫黄酸化物の環境濃度を継続的に測定しているが、その測定結果は別表27のとおりであり、このうち、原告らの居住地域、耕作農地所在地域のある下野尻地区、西野尻地区の測定値は、最高で下野尻地区(下野尻社宅)の〇・九三mg/日/一〇〇cm2である。

また、原告らも、昭和四八年一〇月から同四九年九月までの間、前記名古屋大学災害研究会に委嘱して、西野尻地区、下野尻地区内の原告らの居宅又は水田に設けた測定点(合計三か所)で、二酸化鉛法により硫黄酸化物環境濃度を測定しているが、その測定結果は別表8のとおりであり、最高で〇・四五三mg/日/一〇〇cm2となっている。

Ⅱ 導電率法(ppm)による測定結果

本件工場は、昭和四九年七月から同五二年三月までの間、西野尻地区、下野尻地区内の原告らの居宅又は耕作農地に比較的近い測定点(西野尻地区、下野尻地区内では合計五か所)において、導電率法によって硫黄酸化物環境濃度を測定しているが、その測定結果は別表23のとおりである。このうち継続的測定といえるのは、同表①の測定点(降下ばいじんに関する前記別表6の①と同一場所で原告らの居宅等に最も近い。)におけるもので、右の期間中、一回当りほぼ一か月間、合計一九回にわたって測定がなされたが、各測定ごとの測定値は、一時間値の一日平均値の最大値が〇・〇〇五ppmから〇・〇一六ppm、一時間値の最大値が〇・〇〇六ppmから〇・〇五七ppmの間の数値を示した(他にも三重県による導電率法の測定値がみられるが、これは継続的なものではないし、測定値も乏しい。)。

Ⅲ なお、右測定結果中、導電率法によるものは、現行の環境基準(一時間値の一日平均値〇・〇四ppm以下、一時間値〇・一ppm以下)をいずれも下廻っているが、多くは、右の本件工場による測定に際して対照点とされた瀬木の測定値を超えており、また、二酸化鉛法によるものも、当地域の自然的(非汚染)硫黄酸化物環境濃度(〇・一から〇・二mg/日/一〇〇cm2程度と推測される。)と比較すれば、これを超えているものが多い。

ロ 汚染の特徴と原因等

右イの事実及び《証拠省略》によれば、原告らの居住地域、耕作農地所在地域を含む本件工場周辺の硫黄酸化物環境濃度の測定値は、前記自然的環境濃度を上廻り、したがって人為的汚染の疑いのある地域の範囲、硫黄酸化物環境濃度と本件工場からの距離及び主風向との関連など、前にばいじんに関して述べた諸特徴が、硫黄酸化物についても、傾向としてはほぼ該当することが窺われ、したがって、本件工場周辺地域は、本件工場から排出された硫黄酸化物によって、比較的軽度ながらも汚染されていたものと認められる。そして、原告らの居住地域、耕作農地所在地域が概ね本件工場が排出した硫黄酸化物の影響範囲に含まれていたこと、季節的には春夏季(四月から九月)にその濃度が高いことなどの点も、ばいじんに関して前記したところとほぼ同様である。

また、先に認定したとおり、本件工場の硫黄酸化物の排出量は、硫黄酸化物環境濃度について測定結果のある昭和四八年以降の排出量(昭和四八年二〇五・三Nm3/h、昭和四九年一八〇・七Nm3/h)を基準にすると、それより若干多い昭和四六、七年(昭和四六年二七〇・七Nm3/h、昭和四七年二六一・八Nm3/h)ころの排出量をもってほぼピークとするものと考えられるから、このことと昭和四八年以降の硫黄酸化物環境濃度の実測値を合わせ考えることによって、実測値のない昭和四七年以前の汚染状況についても、ある程度これを窺うことができる。

ハ 二酸化鉛法と導電率法について

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

Ⅰ 二酸化鉛法と導電率法は、測定原理がそれぞれ異なり、二酸化鉛法は、二酸化鉛が硫黄酸化物によって一定期間に酸化される量を計測することにより行なわれるもので、その測定値は硫黄酸化物濃度の絶対値や時間的変化ではなく一定期間(通常三〇日間)の積算値として表わされ、一方、導電率法は、硫黄酸化物による過酸化水素水の電気伝導度の変化を計測することにより行なわれるもので、その測定値は通常一時間の平均値として表わされる。

Ⅱ 二酸化鉛法は、右のように酸化捕集によるものであるので、風向、風速、湿度、気温によって著しく影響され、殊に湿度、気温が高いときは測定値も高く出る傾向がある(例えば、気温が摂氏一度上昇すると捕集率は〇・四パーセント上昇するといわれている。)ため、異なる地域間及び季節間の比較をするには注意を要する。

Ⅲ 二酸化鉛法による測定値(mg/日/一〇〇cm2)と導電率法による測定値(ppm)との間には一定の比例関係があることが知られているが、その比率は地域等によって異なり、単純な相互比較は困難である。

したがって、前記の各測定値を使用する場合は、以上のような各測定法のもつ特性にも留意する必要がある。

(二) 土壌汚染について

(1) 本件工場周辺土壤の重金属汚染とその特徴

《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

イ セメント製造工場周辺土壌の重金属汚染問題

東京都西多摩郡日の出町、岐阜県本巣郡本巣町などセメント製造工場の周辺農地における昭和四七、八年産米中からカドミウム汚染米が発見されたのを契機として、東京都、岐阜県等でセメント製造工場周辺土壌の重金属汚染問題がもちあがったが、三重県においても、昭和四八年に本件工場周辺の産米中からカドミウム汚染米が出現したため、東京都及び岐阜県と同様に、本件工場周辺土壌の重金属汚染が問題となり、前記名古屋大学災害研究会や三重県等において、本件工場周辺の土壌中重金属濃度の分布調査が行なわれた。

まず、右名古屋大学災害研究会は、昭和四八年九月から同年一一月の間、藤原町及び員弁郡北勢町、同郡大安町などの本件工場周辺地域一帯で、水田土壌中の重金属濃度を測定したが、これは、合計一〇二か所の水田中央部、深さ一〇センチメートルまでの表層土を採取し、土壌中に含まれたカドミウム、亜鉛、鉛、銅の全量濃度を原子吸光法で測定したもので、その結果、非汚染土壌における重金属濃度(様々な知見が発表されているが、例えば、環境庁は、カドミウムは二ppmを超えれば人為的に汚染されているものと考えられるとし、亜鉛は非汚染地域では二〇〇ppm以下(可溶性濃度で二〇ppm以下)、銅は農薬を使用していない土壌で一〇ppmないし一五〇ppm程度であると推定し、また、鉛については、Swaine等による通常二ppmないし二〇〇ppmという知見を引用している。)を超える測定値が多く得られた。なお、右測定結果を、各重金属別に濃度によって五段階に分け、地図上に図示したものが、別図4の1ないし4であり、測定値中から原告らの耕作農地が所在する西野尻地区、下野尻地区等の測定値を拾ったものが別表9である。

また、三重県でも、公害センター、農業技術センターーなどが右とほぼ同様の地域における土壌中重金属の分析調査に当り、昭和四九年一二月に調査報告書をまとめているが、これは、本件工場周辺の非農用地土壌(深さ一〇センチメートル以内の表層土と深さ四〇ないし六〇センチメートルの下層土)、農用地土壌(深さ一五センチメートル以内の表層土、深さ一五ないし四五センチメートルの中層及び下層土)等につき、非農用地は原子吸光法による全量濃度、農用地は〇・一規定塩酸抽出による可溶性濃度を測定したもので、これによれば、非農用地の表層土中の重金属濃度は右名古屋大学災害研究会とほぼ類似した測定結果を示しており、また、農用地(水田及び畑)土壌中重金属の可溶性濃度の測定値のうち、西野尻地区、下野尻地区、石川地区の表層土の重金属濃度は、カドミウムが〇・四三ppmないし四・四二ppm、亜鉛が〇・四ppmないし四五・三ppm、銅が〇・一ppmないし一四・七ppmであった。

なお、本件工場周辺の土壌中重金属濃度(全量濃度及び可溶性濃度)については、被告会社の委嘱によるものを含め、ほかにも多くの分析及び調査結果がみられるが、以上の測定結果と顕著に異なる測定値を示したものはない。

ロ 本件工場周辺の土中壌重金属の分布上の特徴

以上の各調査から、本件工場周辺地域の土壌中重金属には、総じて、次のような分布上の特徴があることが判明した。

Ⅰ 前記非汚染土壌における重金属濃度を上廻り、したがって人為的汚染に曝されていると考えられる地域は、前認定の当地域の主風向を中心とした東西約一キロメートルの幅に沿って、本件工場から半径約二・五ないし五キロメートルに及び、これは前認定のばいじん及び硫黄酸化物の汚染範囲と概ね一致している。

Ⅱ 右範囲の地域内においては、大貝戸地区、坂本地区を除き、表層土の重金属濃度が下層土の重金属濃度よりも高濃度であり、また下層土においては、ほぼ前記非汚染土壌における重金属濃度にとどまっている。

Ⅲ 右範囲の地域内の民家床下表層土中の重金属濃度は総じて庭先表層土中の重金属濃度より低く、かつ、床下の表層土と下層土の濃度差も総じて庭先のそれよりも少ない。

Ⅳ また、表層土の重金属濃度及び表層土と下層土の濃度差は、本件工場からの距離が遠くなるに従い、また、右主風向の方向から離れるほど漸減する。

Ⅴ 水田の土壌中重金属濃度は、水系により重金属が運搬される場合と異なり、総じて水口(用水の取り入れ口)付近の方が水尻(用水の排水口)付近よりも低濃度である。

もっとも、西野尻地区の更に北西方向に所在する大貝戸地区、坂本地区を中心とした一部地域においては、土壌中重金属濃度の測定値が右の諸特徴と合致しておらず、むしろ下層土の重金属濃度の方が表層土より高い傾向にあり、しかもそのいずれもが極めて高濃度であるなどの著しく特異な特徴を示している。

しかし、東京農工大学教授本間慎らは、このような特異現象がみられるのは大貝戸地区、坂本地区を中心とする一部地域に局限されており、原告らの耕作農地所在地域を含む他地域にまで及ぶものではないし、土壌中の各重金属の含有割合も右の大貝戸地区、坂本地区を中心とする一部地域と他地域とでは全く異なることから、原因はともあれ、これはこの地域のみに限られた特異現象とみるべきであるとしている。

(2) 土壌汚染の原因

イ 右(1)の土壌中重金属濃度の測定結果及び分布上の特徴は、いずれも、本件工場周辺の土壌が人為的な重金属汚染に曝されていること、これが大気型の汚染によるものであって、本件工場の排出物と関連があることを示唆しているものということができ、更に、先に認定したように、本件工場の排出する多量のばいじん中にはセメント焼成工程等で濃縮された高濃度の重金属が含有されていること(因に、《証拠省略》によれば、本件工場周辺の家屋の屋根瓦、樋の堆積物及び浮遊粉じん中から、測定値中の最高値で、カドミウム六三・二ppm、亜鉛二五一〇ppm、鉛一五六〇ppm、銅八六九ppmが検出されたことが認められる。)、本件工場周辺には本件工場以外に顕著な重金属の発生施設はないこと(《証拠省略》によって認める。)等によれば、本件工場周辺土壌の重金属汚染は、本件工場の操業開始以来排出されてきたばいじん中に含まれた重金属が、ばいじんとともに本件工場周辺に自重降下して土壌中に蓄積された結果生じたものであると推認することができる。

また、《証拠省略》によれば、昭和四八年以降も下野尻地区、西野尻地区等の本件工場周辺の産米中からカドミウム汚染米が継続的に発見されているが、自然状態下の土壌中カドミウムはその特質として植物に吸収されにくい形態で存在するため、右のようにカドミウム汚染米が出現すること自体が人為的な土壌汚染を疑わしめる重大な徴表といえること、本件工場周辺地域における土壌中重金属の分布状態は、調査の結果、セメント製造工場が周辺土壌の重金属汚染の汚染源であると判定された前記東京都西多摩郡日の出町、岐阜県本巣郡本巣町のそれと酷似していることがそれぞれ認められるが、これらの事実もまた前記認定を裏付けるものであるといえる。

ロ もっとも被告会社は、本件工場及び原告らの居住地域、耕作農地所在地域の西側に位置する鈴鹿山脈の東斜面には高カドミウム濃度の地層が存在し、これらの高カドミウム濃度の岩石、土壌、鉱石等が崩落流出して河川等で下流に運ばれ、これが本件工場周辺地域にある低カドミウム濃度の地層の上に薄く堆積してこの地域の作土層をなしているものであって、このことが、本件工場周辺の土壌中カドミウム濃度が表層土に高く下層土に低い原因をなしているなどと主張するところ、大貝戸地区、坂本地区のカドミウム濃度が表層土、下層土とも極めて高いことは前記のとおりであるし、また《証拠省略》中にも、右主張に沿う記載又は供述部分がある。

しかし、右主張中で被告会社が原告らの居住地域、耕作農地所在地域の土壌中カドミウムの高濃度化の原因としてあげる理由のみによっては、前記本件工場周辺の土壌中重金属の分布上の特徴のすべてを説明できるわけではないことは明らかであるし、表層土のカドミウム濃度が下層土より高く、かつ下層土のカドミウム濃度がほぼ非汚染土壌における重金属濃度と一致している理由についての被告会社の主張も、右藤井証人の行なった本件工場周辺地域における岩石及び土壌の分布調査の結果(《証拠省略》はその調査報告書である。)等によっても十分に実証的裏付けがなされたものとは言い難く、同証人自身が自認するように、これは未だ仮説にとどまるものと評するべきである。

また、被告会社の主張を、本件工場周辺の土壌中カドミウムの高濃度化に鈴鹿山脈の地層からの影響が一部寄与している旨の主張であると解しても、前記のとおり本件工場周辺地域においても、下層土の濃度は右大貝戸地区、坂本地区を除き、ほぼ前記非汚染土壌における重金属濃度と一致していること、民家の床下土壌の表層土は、汚染地域内においても、概ね、非汚染土壌における重金属濃度に近いことからして、表層土の高カドミウム濃度化には、やはり本件工場の排出したばいじんの寄与が大きいものといわざるをえない。

3 被害の発生とその原因

(一) 農作物被害

まず、本件工場の周辺における農作物に関する被害の実情を検討し、続いて、その原因を検討することにする。

(1) 被害の実情

イ 《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

本件工場から排出されるばいじんの量が増え、したがって原告らの耕作農地所在地域への降下ばいじん量が急激に増大した昭和三四、五年ころから、原告らを含む本件工場周辺の住民が耕作する水稲、麦、野菜類等が降下ばいじんによって汚染されたのはもちろん、それらの生育の悪化が一段と目立つようになり、例えば、水稲のしいな(不稔粒)が増え、野菜類の葉に斑点が出て枯れ上がり、更に茶の木の勢いが弱って落葉し、遂には枯れるものも出るなど、農作物の品質及び収量が全般に低下したが、昭和四七、八年ころになって降下ばいじん量が逆に減少しはじめると、再び農作物の品質及び収量が回復する傾向をみせはじめたというのが、原告らにほゞ共通した農耕生活上の実感であり、また、かつては原告らの耕作農地の所在する下野尻地区、西野尻地区等にも多くみられた茶畑が降下ばいじん量の増加とともに減少又は消滅していき、降下ばいじん量の少ない近隣の藤原町大字川合、同町大字市場等には多くの茶畑が残っているのと好対照をなしていた。

そこで、原告らを含む本件工場の周辺住民は、主として水稲の被害に関し、本件工場の排出物が原因であるとして、しばしば被告会社に対し補償請求をしたが、被告会社においても、これに対し一部補償金を支払った事実がある。

ロ また、《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

右イのような農作物の生育悪化の実情を科学的に把握するため、原告らの一部を含む藤原町内の有志農民グループ瑞穂会の依頼により、三重大学農学部助教授谷山鉄郎を中心として、昭和四八年九月から同四九年八月ころまでの間、原告らの耕作農地所在地域を含む本件工場周辺の田畑等で数次にわたって実態調査及び収量調査が行なわれたが、その主要な調査結果は次のとおりであった。

Ⅰ 右谷山助教授らは、昭和四八年九月、まず予備調査として水稲の草丈、分けつ数、生存葉数等について実態調査をしたが、その結果、下野尻地区、西野尻地区等で、同助教授らが本件工場からの距離等の関係で本件工場の影響が及んでいない対照区として選んだ藤原町大字東貝野に比し、草丈、分けつ数、生存葉数等の減少がみられ、殊に水稲の光合成量に重要な関係のある生存葉数が減少していたことから、これらの地区では高収量が期待できないものと推測された。

そこで、同助教授らは、同年一〇月と昭和四九年一〇月の二回にわたり、いずれも本件工場周辺の水田において円形坪刈りによる水稲収量調査を実施したが、そのうち昭和四八年度調査は、対照区を右藤原町大字東貝野とし、水稲収量(精玄米重)のほかにも一穂籾数、登熟歩合等の収量構成要素や品質をも合わせ調査したもので、その調査結果は別表28のとおりである。また、昭和四九年度調査は、対照区を中島地区、下中島地区(右谷山助教授らは、これらの地区を本件工場の排出物による軽度汚染地区と想定した。)として行なわれたものであるが、その調査結果は別表29のとおりであり、これを収量別に五段階に分けて地図上に図示したものが別図5である。

これらによれば、昭和四八年度調査では、下野尻地区、西野尻地区等は、総じて、一穂籾数、登熟歩合等において対照区たる藤原町大字東貝野に劣り、品質的にも死米、青米、茶米又は厚さの薄い玄米が多く、更に、収量は、右対照区に比し、西野尻地区で平均約三一・五パーセント(一〇アール当り約一五三キログラム)、下野尻地区で平均約三三・五パーセント(一〇アール当り約一六三キログラム)の収量減を示し、また、昭和四九年度調査においても、右のとおり、軽度汚染地区として想定された中島地区、下中島地区の平均収量に比べても、西野尻地区で平均約一八・五パーセント(一〇アール当り約八四キログラム)、下野尻地区で平均約一六・八パーセント(一〇アール当り約七六キログラム)の収量減を示した。なお、その位置関係等から降下ばいじん量が比較的少ない(前記第二、四、2参照)藤原町大字志礼石新田や石川地区においても、右両調査で一〇パーセント内外の収量減を示している。

Ⅱ 更に、谷山助教授らは、昭和四九年八月、本件工場周辺においてネギ、きゅうり、なす、大豆、茶等の葉を中心とした被害調査を行なっているが、これによっても、いくつかの外観上の障害が発見された。

Ⅲ そして、以上の実態調査及び収量調査によると、水稲の減収傾向等がみられる範囲は、前認定の本件工場から排出されたばいじん等による汚染範囲と概ね一致しており、その範囲内では、総じて、本件工場からの距離が遠くなるに伴って減収等も漸減し、前認定の当地域の主風向から離れるほど減収等も減少する傾向が窺われた。

もっとも、《証拠省略》及び証人守田研吾の証言によれば、被告会社の社員である同証人が、本件工場周辺の農家の昭和四八年から同五一年までの水稲収量を聞取り調査した結果及び三重県による昭和四九年から同五一年の間の本件工場周辺における水稲収量調査の結果からは、右のとおり、谷山助教授らが水稲の収量調査をした昭和四八、九年においても、必ずしも同助教授らの収量調査にみられたような減収傾向とその分布上の特徴が表われていないことが窺われるが、他方、《証拠省略》によれば、右守田証人の聞取り調査では、坪刈り調査が行なわれておらず、また、調査の対象となった農家が水稲収量をどのような方法で把握したのか必ずしも明確ではないし、三重県の収量調査でも、昭和五〇年以降は検見による概数収量を出したものであり、昭和四九年の調査も円形坪刈りよりも格段に精度の劣る十字坪刈りの方法がとられたことが窺われることからして、それらの調査結果の精度には多分の疑問が残るところであって、証拠価値はいずれも乏しいものといわなければならない。

(2) 本件工場が排出するばい煙の農作物に及ぼす影響

(1)においてみた、本件工場周辺における農作物の被害の原因としては、本件工場が排出するばい煙中のばいじん、硫黄酸化物、重金属による複合汚染が考えられるので、これらの物質が原告らの耕作する農作物に及ぼす影響について、以下に検討する。

イ ばいじんについて

Ⅰ 《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

前記谷山助教授は、現地における前記の実態調査及び収量調査の後、本件工場が排出するばいじんの付着による水稲の生育及び収量に対する影響について調査するため、昭和五三年七月から同年一〇月までの間、ばいじんの代替物として被告会社製セメント粉末をポット植えの水稲に散布する実験を行なった。これは、ポット植えの水稲の生育期間(七月から九月)中、重金属添加のセメント粉末(カドミウム五〇ppm、鉛及び亜鉛二〇〇〇ppm、銅一〇〇ppmを添加したもの)又は重金属無添加のセメント粉末を、一平方メートル当り一日平均一グラムないし五グラム(三〇t/km2/月ないし一五〇t/km2/月)ずつ、主として葉の表面に散布して、水稲の生育及び収量を調べたもので、その結果は別表30のとおりである。これによると、セメント粉末を散布しない対照区に比し、重金属添加又は無添加のセメント粉末を散布した汚染区は、総じて、一穂籾数、登熟歩合等の収量構成要素が低下し、光合成が阻害されることが窺われたほか、重金属の添加によってセメント粉末散布による阻害が促進される傾向がみられ、汚染区の最終子実収量は対照区に比し六パーセントないし二五パーセント低下した(但し、セメント粉末散布量の多寡によっては、必ずしも実験結果に顕著な差異が表われていない。)。

一方、右実験に並行して、名古屋大学の板野義太郎、原告川杉三雄らも、下野尻地区に所在する同原告所有田の水稲に、被告会社製セメント粉末(但し、重金属は添加していない。)を一平方メートル当り一日平均二グラム(六〇t/km2/月)ずつ散布する実験をしたところ、一〇パーセントないし二〇パーセントの水稲収量の減収が認められ、傾向としては右谷山助教授によるポット試験とほぼ同様の結果が得られた。

Ⅱ ところで、同助教授は、粉塵の付着によって以上のように水稲の生育が阻害されるメカニズムについて、粉塵が水稲などの茎、葉に付着すると気孔の閉鎖を惹起して二酸化炭素の取り込み量も減少させ、あるいは葉身の表面又は裏面に付着した粉塵が光を遮ぎって日射量を不足させ、これらのことがいずれも水稲の光合成速度の低下につながって、最終的に減収をもたらすのであり、これは水稲のみならず植物全般に妥当する旨説明する。

Ⅲ そして、前記第二、四、2で認定した原告らの耕作農地所在地域付近のばいじんによる汚染状況、殊に、その経年的推移と水稲の生育期間である春夏季(四月から九月)の汚染程度に照らせば、右の実験結果は、概ね、本訴請求に関係する昭和三五年から同四九年の間の原告らの耕作農地における現実の稲作にも妥当するものということができる。

もっとも、右実験におけるセメント散布量には、前認定の原告らの耕作農地所在地域付近におけるばいじん降下量に比し、時期及び耕作農地の所在位置によっては、これを上廻るものもみられないでもないが、現実の汚染状況は、終日にわたって間断なく粉塵が降りそそぎ、葉の表面のみならず裏面にも粉塵が付着するものであってみれば、むしろ右各実験におけるよりも更に悪条件下にあるとも思われるし、前記のとおり、右谷山助教授の実験においてセメント粉末散布量の多寡が必ずしも実験結果に顕著な影響を及ぼしていない事実に照らせば、このことも、ばいじんの付着が原告らの水稲の収量に何程かの減収をもたらしたという結論まで左右するものではない。

更に、以上によれば、原告らの耕作する水稲以外の野菜類等においても、単にばいじんの付着による物理的被害のみではなく、ばいじんが葉等に付着することによって光合成を阻害し、野菜類の減収等をもたらしたであろうことは、容易にこれを推認できるところである。

ロ 硫黄酸化物について

Ⅰ 硫黄酸化物による植物の生育阻害

まず、硫黄酸化物による植物の生育阻害の一般的特徴を簡単にみておく。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

硫黄酸化物(殊に亜硫酸ガス)が植物体内に吸収され、体内硫黄として蓄積されることによって、あらゆる植物に外観上の障害(可視被害)が発生することは、これまで多くの実験例によって確認されているところであり、このような外観上の障害があらわれるときは、多くの場合、乾物生産及び子実生産の低下をも伴うとされている。また、植物に外観上の障害が発現する前の、より低度の汚染段階においても、植物の光合成作用や呼吸量等の生理作用が阻害され、乾物生産及び子実生産が減退する(不可視被害)ことを肯定する知見も存在する。なお、植物が硫黄酸化物から被る被害程度は植物の種類によっても異なり、例えば水稲は比較的低抗力が大きく、それに対し、ブドウ、ケヤキ等は抵抗力が小さい。

そして、前記谷山助教授は、硫黄酸化物によって以上のような生育阻害が発生するメカニズムを、水稲を例にとり、概ね、別図6のとおり説明している。これを要約すると、大気中に排出、放散された亜硫酸ガスが、そのままで、或いは亜硫酸ミスト等に変化した状態で、水稲に付着し、吸収されることによって、光合成等の生理作用を直接阻害し、又は葉緑素を破壊(これが前記可視被害の主因となる。)して、その結果、分けつ数や葉面積の減少をきたし、最終的には、乾物生産及び子実生産の減退をもたらすというのであり、また、高濃度の亜硫酸ガスがたとえ短時間でも受精期(通常七月ころ)の水稲を襲った場合には、その受精作用を妨害して不稔粒の増大を招き、突発的に減収等の被害をもたらすことがある。そして、以上の減退機構は、基本的には水稲以外の植物にも当てはまるというのである。

Ⅱ 被害発現濃度についての知見

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

米国連邦政府公衆衛生部は、一九六七年、「硫黄酸化物に関する大気質基準」を公表しているが、その中には植物に関する論文に基づいて植物の可視被害と亜硫酸ガス濃度及び接触時間との関係を示した図表がある。そして、前記谷山助教授は、自己の研究成果を含め、二酸化硫黄が植物に及ぼす影響についての我が国の知見を収集し、これを光合成阻害に関するもの、生育阻害及び減収に関するもの、可視被害に関するものに分類整理したうえ、これと右の米国連邦政府公衆衛生部のデータを合わせて、植物被害についての亜硫酸ガス濃度と接触時間との関係を別図7のとおり図示している。

同図によっても明らかなとおり、硫黄酸化物の植物に対する影響は、硫黄酸化物濃度と接触時間の双方にかかわり、低濃度の硫黄酸化物も長時間接触することによって植物体内に蓄積され、遂には被害を発現させるし、比較的短時間の接触でも硫黄酸化物が高濃度であれば急性の被害を発現させる関係にあり、また、植物の光合成阻害は、植物の種類によっては、硫黄酸化物濃度〇・〇二ppm、接触時間一時間程度の汚染段階においても生じうるが、生育阻害及び減収は、硫黄酸化物濃度又は接触時間の点においてそれよりも高い汚染段階で発現し、可視被害は、更に高い汚染段階で発現する傾向がある。

なお、右の谷山助教授の収集した知見は、硫黄酸化物濃度の単位として、主として導電率法による場合のppmを使用したものであるが、二酸化鉛法によるmg/日/一〇〇cm2を使用した知見も含まれるところ、これによって表わされた知見のうち、最も軽度の汚染段階におけるものは、同助教授らが四日市市内で行なった水稲の生育及び収量試験における二酸化硫黄濃度〇・七一mg/日/一〇〇cm2(〇・〇二七ppm)×六〇日で乾物生産が一三・二パーセント減少したというものである。

Ⅲ 原告らの耕作農地所在地域付近における被害発生の可能性

右Ⅱの知見を、前認定の原告らの耕作農地所在地域付近における硫黄酸化物による汚染状況と対比すると、硫黄酸化物環境濃度が原告らの耕作農地所在地域付近で高くなる春夏季においても、その汚染程度は、多くは右知見における光合成阻害の段階にすら至っていなかったことが窺われ、更に、自然大気中では、風向、風速等の影響によって、一定濃度の硫黄酸化物が長期間植物に接触するという事態は生じにくいことを考慮すると、原告らの耕作農地所在地域付近における程度の硫黄酸化物環境濃度の下においては、硫黄酸化物によって、恒常的に、農作物の減収被害等が発生していた可能性は、一般的には乏しいものといわざるをえない(もっとも、二酸化鉛法による測定値中には、右Ⅱの四日市市における水稲の生育及び収量試験の際の硫黄酸化物濃度に近いものも一部みられないでもないが、前認定のとおり、二酸化鉛法による測定値は気温、湿度等の異なる他地域との比較には必ずしも適しておらず、また、ほぼ同一の測定時期及び測定場所における導電率法による測定値は、さして高濃度を示していないことに照らせば、このことも又、右の判断を左右するものではない。)。

しかしながら、以上のようにいえるからといって、原告らの耕作農地所在地付近においても高濃度の硫黄酸化物が瞬間的に接触することによって突発的に被害が発生した可能性があることまで、否定してしまうわけにはいかない。けだし、硫黄酸化物環境濃度の測定は、二酸化鉛法は一か月間の積算値として、導電率法でも通常一時間の平均値として測定されるものであることは先に述べたとおりであるから、これらの測定方法によっては、自然大気中で絶えず変化する硫黄酸化物濃度の消息まで完全に捕捉しうるものでないことはもちろんであって、その測定値が低いからといって、瞬間的に硫黄酸化物環境濃度が高濃度になることがありうることまで否定するものではないし、また、水稲などでは、その受精期(水稲は通常七月ころ)にたとえ短時間でも高濃度の硫黄酸化物に接触すれば受精作用が阻害されて減収等につながることがありうることは前記認定のとおりである。そして、《証拠省略》によれば、前記谷山助教授らは本件工場周辺の農作物等から比較的高濃度の硫黄酸化物に接触したために生じたと思われる急性被害の症状を発見していること、本件工場においてSPキルンの稼働が開始された直後の昭和四五年の秋に(このころ本件工場における硫黄酸化物の主要排出源のひとつである自家発電用ボイラが付設され、硫黄酸化物を排出し始めたことは先に述べたところである。)、原告らの耕作水田の一部が、その特徴からして硫黄酸化物による急性被害の疑いのある被害を被った事実があること等が認められることを合わせ考えれば、原告らの耕作農地所在地域付近においても、時期、耕作農地の所在位置、農作物の種類等の如何によっては、突発的に減収等の被害が発生することもあったものと推認することができ、したがって、その限りにおいては、硫黄酸化物による影響も無視しえないところである。

ハ 重金属について

Ⅰ 重金属による植物の生育阻害

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

土壌中重金属の一部は植物の生育になくてはならない必須要素となっているが、これも過剰に存在するときは植物に有害作用を及ぼすことはもちろんである。殊に、カドミウム、銅、亜鉛、鉛等が土壌中に過剰に存在すれば、あらゆる植物の生育を阻害することは、これまで多くの実験例によって確認されているところである。また、これら重金属による被害が前記硫黄酸化物等による一過性の被害に対して有する著しい特徴は、それが農耕土壌への比較的長期にわたる蓄積を通じて農作物等に障害を及ぼすに至る点にある。

ところで、土壌中の過剰重金属による症状には、根部の形態変化(根の伸長抑制、分岐根の多発などの現象が生じ、これが後記ころび苗現象の原因となることもある。)及び地上部の形態変化(葉に黄化萎縮、いわゆるクロロシス現象が起こる場合が多い。)があり、最終的には収量の低下などにつながる。但し、植物が重金属から受ける影響の程度は、その種類によっても異なり、豆類、蕪、きゅうり、ホウレン草、大根、大麦等は、比較的抵抗力の弱い部類に属する。

そして、前記谷山助教授は、重金属によって植物に右のような生育阻害が発生するメカニズムを、概ね、別図8のとおり説明している。これを要約すると、土壌溶液中に溶出した重金属は根から植物体内に吸収される過程で根の生育阻害を惹起するなどして、根の養分及び水分の吸収を妨げ、或いは、植物体内に吸収、蓄積された重金属は葉緑素の形成に必須の鉄分等の吸収を妨げて葉緑素の形成を阻害し、その結果、植物の光合成機能を低下させることによって、最終的には収量及び品質の低下をもたらすというのである。

Ⅱ 被害発現濃度についての知見

《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

一般に減収被害等を生ずる程度の土壌中重金属濃度、即ち被害発現濃度に関しては様々な実験がなされているが、右被害発現濃度は、実験方法、植物の種類、土壌中の粘土量、酸化還元電位等の多くの要因にかかわるため、被害発現濃度を一義的に把握できるような知見は見当らず、例えば水稲についての知見でいえば、環境庁はカドミウムが概ね二五ppm以上、亜鉛は二五〇ppmから五〇〇ppm程度と推定しているのに対して、平田熙東京農工大学農学部助教授は、水稲を用いたポット試験では、カドミウムは添加一〇ppmから一〇〇ppm、亜鉛は添加五〇ppmから三二〇ppmの範囲内にあるとしている。

ところで、土壌中の重金属による被害は、重金属が根から吸収されることによって生ずるものであるが、重金属が根から吸収されるためには、これが土壌溶液中に溶出していることが必要であり、したがって土壌中重金属の全量濃度が高くても、これが溶出しにくい形態になっている場合には、植物に被害が生じにくい関係にある(因に、この点に関し、土壌溶液中の銅濃度と植物の銅被害の間には相関があるが、土壌中全銅とは極めて相関が小さい旨の研究例がある。)したがって、現実の農耕土壌中の重金属濃度によって植物被害発現の可能性を知ろうとする場合には、土壌中重金属の全量濃度でなく、可溶性濃度によってこれを検討する方が適当ともいえる。

そこで、《証拠省略》中の知見のうち、土壌中重金属の可溶性濃度に関すると思われるもので、概ね最低と考えられる被害発現濃度をみておくと、カドミウムがほぼ五ppmないし一〇ppm、亜鉛がほぼ五〇ppm、銅がほぼ一〇ppmないし五〇ppm(鉛については、現在のところ知見に乏しい。)であることが窺われる。

Ⅲ 原告らの耕作農地所在地域付近における被害発現の可能性

本件中に顕われた原告らの耕作農地所在地域付近における土壌中重金属の可溶性濃度の測定値としては、前認定のとおり、三重県による昭和四九年一二月付の土壌汚染に関する調査報告書中の測定値等があるが、これを右Ⅱの被害発現濃度(但し、可溶性濃度に関するもの)に関する知見と比較すれば、原告らの耕作農地所在地域付近の土壌中重金属濃度は、概ね、右被害発現濃度を下廻っており、したがって、可溶性濃度でみる限り、原告らの耕作農地所在地域付近において、土壌中重金属の影響によって農作物等に減収等の被害が発生する可能性は、一般的には、必ずしも高いとはいえない。

しかしながら、《証拠省略》によれば、土壌中重金属の溶出程度、即ち、全量濃度中可溶性成分となりうる量は、前記した土壌中の粘土の量、酸化還元電位や水素イオン濃度、共存イオン、土壌有機物等多くの因子に規定されており、その状態は、栽培管理等によっても相当影響されること、また、各地の農業試験所などにより、カドミウムと亜鉛、カドミウムと銅などの共存によって減収が助長された旨の実験結果や、汚染田の落水により玄米中カドミウム濃度や収量が顕著に低下した旨の実験結果が報告されている事実が認められることに照らせば、前記のように農作物等に減収等の被害が発生する一般的可能性が乏しいからといって、耕作状況及び土壌条件等によってはこれらの被害が発生する可能性があることまで否定してしまうものでないことはもちろんである。

ところで、原告らの耕作農地所在地域付近の土壌中重金属の全量濃度が必ずしも低いものではないことは前記第二、四、2(二)で認定したところに照らしても明らかであるし、また、《証拠省略》によれば、前記谷山助教授が昭和四九年ころ、藤原町の汚染畑土を使用して水稲及び陸稲のポット試験をしたところ、汚染畑土に植えられた水稲及び陸稲は、非汚染土壌に植えられたものよりも分けつ数が抑制され、乾物重が低下するなどの生育阻害がみられたこと、同助教授らは、本件工場周辺の農作物等の外観に、黄化萎縮など重金属障害の疑いのある症状を数多く発見していること、昭和四九年ころ、名古屋大学災害研究会のメンバーが下野尻地区の汚染田と排土客土した水田で水苗の生育実験をしたところ、汚染田の方がころび苗が多く生じたこと、本件工場周辺の水田では従来から開花出穂期以降水稲の生育が不良になる、いわゆる秋落現象が多くみられたが、その原因として土壌中重金属の影響をあげる学説も存在すること、畑作物は一般に水稲より重金属による被害を受けやすいことが認められること等を考慮すると、原告らの耕作農地所在地域付近においても、耕作農地の所在位置、農作物の種類及びその他の条件の如何によっては、農作物の生育及び収量に対する土壌中重金属の影響を全く無視してしまうことはできないものといわなければならない。

もっとも、《証拠省略》によれば、被告会社等の調査によると、本件工場周辺の土壌中カドミウム濃度と水稲収量との間には必ずしも明確な相関関係が窺われなかったことが認められるが、土壌中重金属の農作物に対する影響は、カドミウムによるものに限るわけではなく、亜鉛、銅、鉛による影響も大きいことは先に述べたとおりであるし、また、前認定の原告らの耕作農地所在地域付近における各種重金属の濃度からしても、原告らの耕作農地所在地域付近においては、むしろカドミウム以外の重金属の影響の方が大きいものといえるから、右のように土壌中カドミウム濃度と水稲収量の間に必ずしも明確な相関関係が認められなかった事実も、前記認定を左右するものではない。

ニ 複合汚染について

以上のように、本件工場の排出するばいじん等は、その影響により、それぞれが原告らの耕作農地所在地域付近の農作物に前記(1)にみたような被害を及ぼしうるが、《証拠省略》によれば、ばいじんや硫黄酸化物による汚染と重金属による土壌汚染が競合した場合には、いわゆる複合汚染として、それぞれの因子が各別に作用する場合よりも相加的又は相乗的にその影響が増大することが認められる(なお、原告らは、更に、窒素酸化物、硫化水素、一酸化炭素などの物質の複合的影響についても主張するが、これを認めるに足りる適確な証拠はない。)。

そして、このことは、後に被害程度等を検討する際にも、考慮を要するところである。

(3) まとめ

イ 以上に認定、判断してきたところ、殊に、原告らの農耕生活上の実感によれば、農作物の被害程度は降下ばいじん量の消長に応じていたこと、前記谷山助教授らの水稲収量等の調査によれば、本件工場周辺の水稲収量の減収傾向とその分布上の特徴が前記第二、四、2で認定したばいじん等のそれに概ね合致する傾向が窺われたこと、実験上、原告らの耕作農地所在地域付近における程度のばいじん汚染により水稲の減収等の被害が生じうることが確認され、そして、このことは水稲以外の農作物にも当てはまると考えられること、硫黄酸化物や重金属による影響も、時期や状況によっては無視し去ることはできず、また、複合汚染による影響も考慮に入れる必要があること等に徴すれば、耕作年度、耕作農地、農作物の種類、表作と裏作等によってその被害程度に差異はあるものの、本件工場の排出に係るばい煙、殊にそのうちのばいじんの影響によって、原告らの本訴請求に関係する昭和三五年から同四九年の間、原告らの耕作農地所在地域の農作物に減収又は品質低下の被害が生じてきたものであることは明らかというべきである(なお、原告らの耕作農地のうち、中島地区、下中島地区、大字下野尻字野尻垣内、大字下野尻字轟、大字西野尻字轟、大字下野尻字炭焼、大字志礼石新田字白瀬野に所在するものは、前認定の主風向との位置関係、地形との関係、本件工場からの距離等の関係で、被告会社も主張するように、他の原告らの耕作農地に比し、その汚染程度は軽微であったものであるが、前記谷山助教授の水稲収量調査でも程度は低いとはいえ減収傾向がみられたことや《証拠省略》を総合すれば、軽微ながら、これらの耕作農地においても減収等の被害が発生していたものと認められる。)。

なお、原告らは、更に、ばいじんの付着による農作物の汚染損、農作業中のばいじんの飛散等による作業能率の低下又は作業量の増加(但し、後者は広義の環境汚染による被害の一部とみるべきである。)などの被害も被っているが、これが本件工場の排出したばいじんによるものであることは多言を要さない。

ロ もっとも、被告会社は以上の農作物被害の発生と原因を争い、次のように反論するので、以下に検討する。

まず、被告会社は員弁郡、藤原町、旧東藤原村(現在の下野尻、西野尻、石川、東禅寺の四地区)の農林統計上の水稲収量に基づき、別表25のとおり、員弁郡の平均水稲年収量に比較して東藤原村及び藤原町の平均水稲年収量には本件工場の操業による影響が殆ど窺われないから、その大部分が東藤原村内に所在する原告らの耕作農地においても水稲収量の減収があったとは考えられない旨主張し、《証拠省略》によれば、農林統計上ほゞ被告会社主張のとおりの傾向があることが認められるが、《証拠省略》によれば、農林統計の目的は元来水稲収量の巨視的把握にあるため調査方法自体も厳密さを欠き、その水稲収量把握の精度にも多分に疑問が残るところであって、殊に、本件におけるように限定された地域内での具体的な減収の有無を決するための資料としては農林統計は必ずしも適切なものではないことが認められることに照らせば、右のように農林統計上、本件工場の影響が必ずしも窺われないからといって、直ちに、原告らの耕作農地において減収がなかったものとすることはできない。

次に、被告会社は、農林統計と原告川杉三雄の農業日誌によれば、原告川杉三雄の水稲年収量は三重県及び藤原町の平均水稲年収量を常に上廻っており、また、同原告の水稲年収量の推移は藤原町のそれと極めて一致した動きを示していることが窺われることからすれば、原告川杉三雄の稲作に本件工場の操業による影響があったとは考えられない旨主張し、《証拠省略》によれば、原告川杉三雄の農業日誌上の水稲年収量と三重県及び藤原町の平均水稲年収量の間には、ほゞ被告会社主張のとおりの傾向があることが認められるが、農林統計が原告らの耕作農地の具体的な減収の有無を決するための資料として必ずしも適切なものでないことは前記のとおりであるし、また、各年度の天候等の気象条件がその年度の水稲収量を決める最大の要因であることは公知の事実というべきであるから、原告川杉三雄の水稲収量に減収がみられる場合でも、農林統計との比較という巨視的観点からみれば、同原告の水稲年収量の推移が藤原町の平均水稲年収量の推移とよく似た動向を示しても何ら不思議はないと思われ、更に、同原告の水稲年収量が三重県及び藤原町の平均水稲年収量より高いことをもって直ちに同原告の水稲収量に減収がなかったと断じるわけにはいかないことはもちろんであるから、右のように原告川杉三雄の農業日誌上の水稲年収量が、三重県等の平均水稲年収量を上廻り、更に藤原町の平均水稲年収量のそれとよく似た動向を示しているからといって、直ちに、同原告に減収がなかったものとすることはできない。

また、被告会社は、被告会社の依頼によって行なわれた昭和五二年の本件工場周辺における水稲収量調査によると、下野尻地区、東禅寺地区のうち、主風向などとの関係で本件工場の影響を受けると思われる地域の平均水稲年収量は四三九・七キログラム/一〇アールであったが、これは右調査における対照区の水稲年収量と比較しても有意差は認められないし、また、昭和五二年ころには本件工場周辺地域においても減収被害がなかったことは明らかなので、右の四三九・七キログラム/一〇アールという収量は、被害のない状態での右地域における昭和五二年の平均水稲年収量ともみるべきであり、また、本訴請求に関係する昭和三五年から同四九年までの一五年間の原告川杉三雄の平均水稲年収量は約四二二キログラム/一〇アールであったから、その間の稲作技術、肥料、農薬等の進歩を考慮に入れた場合、右原告川杉三雄の平均水稲年収量は被害のない状態での右地域における水稲年収量に比べて全く遜色がないか、或いはそれ以上のものともいえる。したがって、原告川杉三雄の水稲収量の減収の主張は全く根拠のないものであることが明らかである旨主張し、《証拠省略》によれば、右水稲収量調査の結果等に関しほゞ、被告会社主張のとおりの事実が認められるが、既にみたとおり水稲収量が年度によって大きく変動するものであることを考えると、昭和五二年の一年のみの水稲収量との比較によって原告川杉三雄の水稲収量の減収の有無を云々することは必ずしも相当とはいえないし、また、《証拠省略》によれば、同原告は専業農家として、西野尻地区、東禅寺地区の平均的住民よりも大きな営農努力をはらっており、したがって水稲を含む農作物の収量において近隣の中では、一貫して、高収量をあげていたことが認められることに照らせば、右の事実をもって、直ちに、原告川杉三雄の水稲収量に減収がなかったものとするわけにはいかない。

更に、被告会社は、本件工場周辺地域のみならず藤原町及び員弁郡全体の水稲収量が、三重県に比して近年低収傾向にあるのであって、その原因は、本件工場周辺地域を含む藤原町及び員弁郡は三重県の他地域に比し、稲作の早期化(田植え時期を早めることによって、水稲の開花出穂期が日照時間の長い七月下旬から八月初めころに当たるようにして増収を図る方法)が遅延していること、当地方は三重県の北部に位置するため気候的に三重県の他地域に比べて条件が悪く、用水温も低いこと、土質的に劣ること、病虫害に対する対策、施肥管理、水管理等の栽培努力が劣ること等専ら自然的又は人的条件にある旨主張するが、仮に被告会社主張のように本件工場周辺の稲作栽培条件が三重県の他地域に比べて劣る点があるとしても、このことは、本件工場周辺地域を含め、藤原町又は員弁郡全体が三重県の他地域に比し収量が劣ることの理由とはなりえても、何故に原告らの耕作農地所在地域を含む本件工場周辺地域の水稲収量が同じ藤原町内の比較的近隣の地域に比し低収量にとどまっているのかという問題に対して何ら解答を提供するものでないことは明らかであるから、被告会社の右主張も失当という他ない。

(二) 山林被害等

前記第二、四、2及び同3、(一)に認定した事実や《証拠省略》によれば、本件工場の排出したばい煙の影響によって本件工場周辺の山林又は樹木にも、その外観及び生育上の障害が発生していたことが窺われるが、その障害の性質、態様及び程度からして、右による被害は、本件工場の排出したばい煙による環境の汚損という範ちゅうに属するものとして、これを考慮すれば足りるものと解される。

もっとも、《証拠省略》によれば、別表17の一の(1)、(2)ほかの原告川杉三雄ら所有の山林の立木の一部に、昭和四九年ころ、枯死(枯死寸前を含む。)するものがみられたことが認められるところ、原告らはこれも本件工場の排出したばい煙の影響によるものである旨主張するが、本件全証拠によるも、本件工場の排出したばい煙と右立木の枯死の間の因果関係を認めることができない。

(三) 養蚕被害

《証拠省略》によれば、一般に、ばいじん、硫黄酸化物等はその物理的、化学的影響により蚕の食桑量及び栄養吸収を妨げ収繭量を減少させることがあることが認められ、この事実に《証拠省略》を総合すれば、原告らを含む本件工場周辺の養蚕農家は、自家で栽培した桑葉を用いて養蚕を営んでいたが、本件工場の排出したばいじんが桑葉に付着することによる物理的影響又はばいじん中の重金属に基づく化学的影響によって、蚕の栄養吸収が妨げられるなどし、その結果、収繭量が減少し、又は品質が低下し、更に、桑葉を洗滌する作業等無用の労働を強いられるなどの被害を被ってきたことが認められる。

(四) 家屋被害

(1) 本件工場周辺地域における汚染及び被害の概況

前記第二、四、2で認定した事実や、《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

イ 原告らの居宅を含む本件工場周辺地域に所在する家屋は、昭和七年の本件工場の稼働開始以来、その排出に係るばいじんをかぶるようになり、特に、ばいじんの降下が激化し始めた昭和三〇年代からは、ばいじんの付着、堆積により、屋根は積雪状を呈し、柱、建具、樋、庭木、庭石等も白く汚染される状態になった。

ロ 本件工場周辺地域の屋根葺材料は、当初、わらや日本瓦(燻瓦)がその主体であったが、降下するばいじん量の増加に伴ないわら葺屋根の腐食による傷みがひどくなり、日本瓦の凍て割れも増加して、例えば、わら葺屋根においては、通常四年周期で葺き替えれば足りるものが、およそその半分の二年周期で葺き替えることが必要となり、日本瓦葺屋根においても、従来以上の瓦の差し替えを余儀なくされ、遂には野地板や棟木などの屋根の構造が腐朽しやすくなって家全体の耐久力が低下するような事態にもなったため、同地域の住民は、隅棟やわら葺屋根の上をトタン板で覆ったり、凍害に比較的強い釉薬瓦(いわゆる色瓦)やセメント瓦、スレートなどに屋根を葺き替えるなど種々の対策を講じた(因に、名古屋大学工学部助教授吉村功による昭和五三年度の現地調査によると、降下ばいじん量の多い地域ほどわら葺や日本瓦葺が減少し、逆に釉薬瓦やセメント瓦が多くなっている傾向が確認された。)。しかし、このような対策を講じても、再び雨漏りがすることもあり、なかには、抜本的な対策として家屋をコンクリート造りなどに建て替えるものも現われた。

ハ そして、以上のばいじんによる汚染及び被害の程度は、前認定の本件工場の排出に係るばいじん降下量の分布状況と概ね一致し、本件工場からの距離が遠くなるに従って漸減し、また前認定の当地域における主風向の方向から離れるほど軽度になる傾向がみられる。

また、前認定の本件工場のばいじん排出量及び本件工場周辺の降下ばいじん量の経年的推移に伴い、その具体的な汚染及び被害の程度に変遷がみられたのは当然であり、特に、降下ばいじん量の減少した昭和四八、九年ころからは、屋根等に付着、堆積するばいじんよりも風雨によって剥離し洗い流されるものの方がむしろ多くなって、全体としては従前から屋根等に堆積していたばいじんもむしろ洗い流される傾向を示し始めた(もっとも、そうであるからといって、昭和四八、九年ころに汚染及び被害がなくなったわけではなく、単に程度の差にとどまるものであることはもちろんである。)。

ニ なお、右ハに関し、被告会社は原告ら(原告川杉行雄を除く。)の居宅付近に所在する家屋の汚染状況等を撮影した乙第四五号証の一ないし三一(昭和五〇年撮影の写真)等に基づき、右原告らの居宅の汚染時期等を云々するが、右のとおり、昭和四八、九年ころからは、屋根等に付着したばいじんが全体としてはむしろ洗い流される傾向にあったことを考慮すると、昭和五〇年の汚染状況から、被告会社主張のように、遅くとも昭和四五年ころ以降は、右原告らの居宅には殆ど汚染がなかったなどと直ちに推断することはできない。

(2) 原告らの居宅の汚染及び被害

前記第一、一でみた原告らの所有又は居住する居宅の本件工場からの方位、距離や、右(1)の事実、《証拠省略》を総合すれば、原告川杉行雄の居宅は前記認定の当地域における主風向に最も近いため降下ばいじん量、したがって家屋の汚染及び被害状況も最も重度で、それに対し、同原告を除く他の原告らの居宅は、原告川杉行雄の居宅に比較すれば、それよりも軽度であること、各原告らによって被害状況に差異はあるものの、ほゞ共通して、屋根瓦、柱、建具等の汚染、わら葺屋根の腐食や瓦の割れによるわらの葺き替え及び瓦の差し替え頻度の増加、雨漏りなどの被害を被っており、右(1)の汚染及び被害の状況ないし傾向が原告らの居宅にも概ね当てはまることが認められる。

(3) 瓦の割れや雨漏りの原因

以上の家屋被害のうち、家屋等の汚染が本件工場の排出したばいじんによるものであることは、以上認定の事実に徴して明らかである。そこで、進んで、瓦の割れや雨漏りの原因について検討する。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

イ 屋根瓦の凍て割れは、主として、瓦素地、殊に瓦の表面よりも多孔質で吸水性の高い瓦裏面の気孔中に侵入した水分が氷結して瓦素地を破損するために起こる現象で、一般に釉薬瓦よりも燻瓦の方がその発生率は高い。

ロ 一方、屋根瓦に降下したばいじんは、瓦の表面のみでなく、瓦と瓦の間隙に侵入して一部は瓦の裏面にも到達するが、ばいじんの付着の仕方や亀裂等の状況等によっては、降雨又は結露によって供給された水分の一部が瓦の重ね目に付着したばいじんや亀裂部分を伝って瓦の裏面にまで浸透して行くこともある。

また、屋根瓦に付着したばいじんは、瓦表面の水流を滞留させ、付着量が多い場合には逆流現象を起して、瓦の裏面に供給される水量を更に増加させるほか、水分の乾燥を妨げる(降雨時などは、雨がやんでから瓦裏面の水がひくまでに一日程度かかることもある。)

以上の事実と、前記(1)で認定した事実を総合すれば、本件工場周辺の家屋の燻瓦に付着、堆積したばいじんは、瓦裏面の保水性を高め、そのこと自体が雨漏り及び野地板、下地などの屋根構造の腐朽を促進する一因となるとともに、瓦を通常よりも凍害の生じやすい状態に置くことにより凍て割れを促進したものと推認することができる。

また、《証拠省略》によれば、入母屋造りの家屋の場合などは下り棟と隅棟の合流点にあるトンネル部分をばいじんが閉塞するため、雨水の流れが阻止されこれが、より直接的な雨漏りの原因となることが認められ、更に、わら葺屋根の場合にも、ばいじんの付着がわらの保水性を高め、わら自体を腐食しやすくするとともに、雨漏り、屋根の構造の腐朽の一因となり、遂には建物全体の耐久力の低下を促進するであろうことも、容易にこれを推認できるところである。

もっとも、被告会社は、原告らの家屋の屋根瓦の割れや雨漏りの原因は、専ら寒冷期における気温差の大きい本件工場周辺地域特有の気象条件や原告らの使用する瓦の質、種類、葺き土の敷き方等が瓦の凍て割れや雨漏りを生じやすいためであって、本件工場の排出するばいじんとは何の関係もない旨主張するところ、本件工場周辺地域の瓦の割れが主として凍害によるものであることは先にみたとおりであるが、問題は、何故に前記のように本件工場周辺の凍害による瓦の割れや雨漏りが本件工場の排出するばいじん量及び降下ばいじん量、したがって、瓦へのばいじんの付着量の多さに比例しているのかというところにあるのであり、しかるときは、瓦のばいじん付着量の増加と符合して、気象条件や瓦の種類、品質等が凍害や雨漏りを起しやすいものに変化するか、或いは、ばいじん付着量の多い場所ほど、右のような条件が凍害や雨漏りを起しやすい状態にあるといえるような特段の事情が認められない限り、前記認定のばいじん付着による被害の状況、付着したばいじんの特徴等に照らし、本件工場周辺地域において屋根瓦の凍て割れや雨漏り等の家屋被害が増大した原因は本件工場の排出したばいじんの付着、堆積によるものと推認すべきであるところ、右被告会社主張の事実のみによっては右特段の事情に該当しないことは明らかであるし、本件全証拠中にも右特段の事情を認めるに足りる証拠はない。したがって、被告会社の右主張は採用できない。

(4) 硫黄酸化物による家屋被害

原告らは、更に、本件工場排出に係る硫黄酸化物によって原告らの居宅の樋やサッシ類が腐食されるなどの被害を被った旨主張するが、本件全証拠によるも硫黄酸化物に基づく家屋被害の発生を認めるに足りる適確な証拠はない。

五  本件工場の操業に伴う騒音による被害について

原告らは、本件工場の操業に伴って発生する騒音により、殊に夏季の夜間、安眠を妨害されるなどの被害を被った旨主張するので、以下に検討する。

1 《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一) 本件工場は、キルン、石灰窯、ミル等の稼働音を発生する多くの施設を擁し、操業開始以来、これらの稼働に伴なう騒音の一部を周囲に放散してきたが、昭和四五年七月ころの前記SPキルンの稼働開始に際し、本件工場北東側境界線に隣接する石川地区の住民との間に騒音に関する紛争が生じた。

その際の、三重県や被告会社による騒音測定によると、多くは三重県公害防止条例の規制基準(工場鏡界線上で夜間五〇ホン、昼間六〇ホン、朝夕五五ホン)を超えていたため、三重県からの勧告などもあって、本件工場においても、消音装置、防音建家、遮防音壁、遮音堤等の防音工事を施工した結果、ほゞ右規制基準をみたすようになった。

(二) 一方、原告川杉行雄の居宅は下野尻集落から離れ西野尻集落寄りに、その他の各原告の居宅はいずれも下野尻の集落内に所在するが(本件工場境界線から北ないし北西約五〇〇ないし七〇〇メートル)、その付近における騒音の直接の測定値としては昭和四九年以降の本件工場によるもの(同年夏季の夜間でほゞ四〇ホン台)があるのみである。

また、右の石川地区付近における三重県や被告会社の騒音測定値のうち、原告らの居宅に比較的近接した位置(およそ二〇〇メートル前後。但し、原告川杉行雄の居宅との距離はもっと遠い。)にある東藤原小学校前及び東藤原農協前の各測定点の夜間の測定値は、昭和四五年七月でおよそ五〇ないし五六ホン、翌四六年の五月から九月でおよそ四三ないし四五ホンである。

2 ところで、一般に工場の操業に伴い騒音が発生し、これが工場外の他人の利益を侵害する場合でも、一定限度以上の騒音であるとの一事をもって直ちに違法なものと解すべきでなく、被害及び加害行為の態様、程度、その地域性、被害者、加害者間の交渉経緯等の諸般の事情を考慮し、健全な社会通念に照らして一般人において社会生活を営む上で受忍するのが相当であると認められる限度を超える場合にはじめて違法になると解すべきである。

これを本件についてみるに、右(一)で認定した各事実からは、昭和四五年七月ころのSPキルン稼働開始から昭和四八、九年ころまでの間に原告らの居宅付近においてもある程度騒音が高まったであろうことはこれを窺えなくもないが、騒音の増加が具体的にどの程度であったのか必ずしも明らかでない(なお、東藤原小学校前等の測定値も距離減衰等種々の条件が判明しなければ直ちには推認の資料となし難い。)し、被害内容及び程度に関しても、わずかに《証拠省略》中に、夜間二時間に一回くらい石灰窯に石灰石を投入する音が聞こえたことや、夏の南風の日に窓を開けていると眠られない日があったといった程度の供述がみられるくらいで、その具体的な態様、程度や頻度等が必ずしも明確でない(因に、《証拠省略》に照らせば、原告らは、これまで取り立てて本件工場の騒音を問題にしてきた節はなく、前記石川地区の住民と本件工場との間の紛争中にも、原告らを含む下野尻地区の住民が本件工場に対して格別の異議を申し立てた形跡は窺われない。)から、それが果たして社会生活上受忍すべき限度を超えていたかどうか適確に判断できないので、その余の点について検討するまでもなく、右騒音を理由に被告会社の損害賠償責任を認めることはできない。

よって、この点に関する原告らの主張も理由がない。

六  本件工場の排水による被害について

1 原告らは、本件工場が、藤原鉱山、砂川粘土山及び横野粘土山の山林を伐採し無計画な採掘を行なって、山の地面の吸水を妨げ、集水範囲、分水嶺を拡大、変更し、或いは工場廃水を多量に排出したため、毎年台風シーズンになると原告らの耕作地等の一部がその流域に存する砂川や中野水路が氾濫しやすくなり、そのため生活環境が破壊されるとともに、別表17の二の(1)ないし(9)及び二の(3)'記載の被害を被った旨主張するので、以下に検討する。

2 原告らの右主張に関係する本件工場の原料採掘関係施設、排水関係施設の概要とその変遷及び排水系路、水系等については前記第一、二、1及び第二、三、3において既に詳述したところであるが、要するに、本件工場の操業が周辺地域の水系に及ぼす影響には藤原鉱山、砂川粘土山、横野粘土山等の原料採掘関係施設における採掘作業によって周辺河川の集水範囲や分水嶺が変更されることによるものと、本件工場から田野溪沈澱池を介して排出される工場廃水によるものがあり、これも周辺地域の水系の側からいえば、砂川では、主として、藤原鉱山、砂川粘土山等から流入する雨水の影響が問題となり、中野水路では、横野粘土山からの雨水の流入と田野溪沈澱池を介して排出される本件工場の工場廃水の影響が問題となる。

3 そこで、まず砂川に関する原告らの主張から検討するに、なるほど、《証拠省略》によれば、少なくとも、砂川の改修(昭和三七年に着工し同四六年一〇月に完了したが、これにより排水能力は従前の約三倍に増大した。)以前は台風等の際に砂川が氾濫したことがあり、その際別表17の二の田が冠水被害を被ったことがあること、本件工場による藤原鉱山の採掘の進行に伴い、一部の山林が伐採されるとともに、砂川の集水範囲も若干拡張されたこと(但し、砂川粘土山は、前認定のとおり、採掘範囲そのものがわずか約二五アールと狭いのみならず、その採掘範囲は砂川の本来の集水範囲内にとどまっていることが窺われる。)など原告らの主張を裏付けるかにみえる事実も認められないではないが、それでは右集水範囲の変更によって増加した雨水がどの程度砂川の水量を増加させ、それによってどの程度砂川の氾濫頻度が増えたのかという点について原告らは明確な主張、立証をしないし、前認定の事実や《証拠省略》によれば、藤原鉱山における採掘方法のうち、昭和二六年ころから採用されたグローリホール法、昭和三八年ころから採用された階段採掘法(ベンチカット法)には、いずれも採掘法自体にある程度の貯水、滞留機能が備っているうえ、沈澱池、貯水槽等の設備も設置されており、更に採掘場の岩盤には亀裂が発達していて雨水の浸透性が高い状況にあるため右集水範囲の増加がそのまゝ砂川に流入する雨水の増加につながるわけではないこと、右砂川の改修工事以前は、砂川上流地域の山が急峻なことや川幅が狭く、川筋も曲折が多く蛇行していたことなどから元来が洪水が起こりやすい地勢にあったことが認められることに照らせば、前記砂川の氾濫や集水範囲変更等の事実のみをもっては、未だ藤原鉱山、砂川粘土山等における本件工場による山林の伐採及び石灰石等の採掘行為と砂川の氾濫及び原告らの田の冠水との間の因果関係を認めるには足りないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

次に、中野水路関係についても、《証拠省略》によれば、中野水路が過去しばしば氾濫したことがあり、そのため別表17の二の(6)ないし(9)の原告川杉三雄又は同川杉行雄所有の山林又は田に原告ら主張どおりの被害があったこと、本件工場による横野粘土山の採掘によりこの区域の分水嶺が若干変更されたことが認められ、また本件工場が田野溪沈澱池を通じて工場廃水の一部(通常毎時二七〇トン程度)を中野水路に排出していることは前認定のとおりであるが、これ又、右分水嶺の変更や工場廃水の排出がどの程度中野水路の水量を増加させ、それによってどの程度中野水路の氾濫頻度が増えたかという点について原告らは明確な主張、立証をしないし、更に《証拠省略》によれば、中野水路は元々幅員の狭い用水路に過ぎず氾濫の起こりやすい状態にあったこと、右冠水被害は、いずれも台風、集中豪雨による大量の降雨により本件工場周辺のみならず北勢地方全体が河川の氾濫、決壊等で大きな被害を被った時のことであることが認められることに照らせば、前記分水嶺の変更や工場廃水排出の事実のみをもっては、未だ本件工場の採掘行為や工場廃水の排出と中野水路の氾濫及び原告らの山林又は田の冠水との間の因果関係を認めるに足りないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない(なお、原告らの主張中には更に、田野溪沈澱池から高濃度のカドミウム含有の工場廃水が排出され、中野水路等が汚染されたなどと主張するかのような口吻も窺われるが、本件全証拠中にもこれを認めるに足りる証拠はない。)。

よって、原告らの右主張は理由がない。

第三責任

一  被告会社が、その操業開始以来のばい煙、殊にそのうちのばいじんの排出、放散によって、原告らに対し、社会生活上受忍すべき限度を超える被害を与えてきたものであり、それにつき、被告会社に、少なくとも過失があったことは以下の各点に徴して明らかである。

1 本件工場が昭和七年の操業開始以来、セメント製造過程で発生するばい煙、殊にこの中に含まれるばいじんを排出し続け、これを周辺地域に放散してきたものであること、本件工場のセメント製造施設の変遷とセメント生産量等の増大状況、殊に、昭和三四年の改良焼成法の採用を契機とするセメント生産量の飛躍的増大に伴い、ばいじん排出量も大幅に増加し、更に、昭和四五年のSPキルンの稼働開始の際にもばいじん及び硫黄酸化物の排出量が増加したこと、そして、以上のような本件工場のばい煙の排出量の増加に伴い、本件工場周辺地域の生活環境がばいじんをかぶるなどで著しく汚染され、激甚期には本件工場周辺一帯の田畑、家屋がばいじんのために灰白色に汚染される状況を呈するに至ったこと、更に、原告らを含む周辺住民の耕作する農作物や養蚕等も、その間、相当な被害を被ってきたこと、そして、これらの被害は、降下ばいじん量が減少する傾向をみせ始めた昭和四八、九年ころまで継続的にみられたこと、以上の事実は既に認定したとおりである。

2 前記第二、二、2で認定した事実や《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。

本件工場周辺地域の汚染は、本件工場の操業開始直後から始まったが、本件工場と周辺町村の間には財政面、雇用面で緊密な関係があったことなどの事情から、戦前は、必ずしも、抗議活動が目立つことはなかったものの、それでも、村長等が本件工場に抗議をすることはあったし、本件工場から比較的離れた旧治田村の住民から、本訴とほゞ同内容の損害賠償請求訴訟が提起されたこともある。そして、戦後になってから、昭和二七、八年ころ、三重県蚕業試験場がセメント降灰による養蚕被害実験を実施し、更に、改良焼成法の採用によって降下ばいじん量が増加した昭和三五年ころには、員弁郡養蚕農協連合会による養蚕被害調査が実施されるとともに本件工場に被害補償要求をするなどの動きがみられ、更に、昭和四五年のSPキルンの稼働開始を契機に、原告らを含む周辺住民間に公害反対の機運が高まって、本件工場に対し数次にわたって補償要求や改善要求が出されたほか、三重県もばいじん防止等について本件工場に対し強い改善勧告を出すに至り、学者グループや三重県による被害実態調査等も相次いで実施されるなど、本件工場が排出するばいじん等がその操業開始以来永年にわたって周辺地域の問題となり、紛争の種になってきた。それにも拘らず、以上の抗議活動等に対する被告会社の対応は、一部補償請求に応じ、或いは、後記のように防止施設の増加等を行なったものの、自ら原因解明等のために充分な調査をしておれば、被害の実情と原因を知りえた筈であるのに、その努力を怠り、他方、地域住民に対しては徒らに被害の発生と因果関係について厳格な証明を要求してその責任を否認し、或いは町村等との交渉に固執して、被害住民の個々人との交渉を避ける態度に終始してきたことが窺われるなど、必ずしも誠実なものであったとはいい難い。

3 また、被告会社が、その操業開始以来、本件工場のセメント製造設備に防塵施設等を設置してきたこと及びその設置経緯の詳細については前記第二、三、2で認定したところであり、したがって、被告会社が公害発生の防止努力を全く放てきしてきたものとまではいうことができないが、しかしながら、その防止施設の内容及び設置に至る経緯等を具体的にみると、前記第二、二で認定した事実や、《証拠省略》によれば、本件工場は、高性能の集塵装置であるEPの導入や整流器の改良等においては同業他社の工場より遅延していたこと、本件工場の防塵対策は総じて不充分で、かつ後手にまわってきたものであり、本件工場において、ばいじん排出量に比し概ね相当と思われる防止施設を備えるに至ったのは、石灰窯に対するEPの設置などを含め本格的な防塵対策工事が完了した昭和四九年ころより以降のことであって、右防塵対策工事も昭和四五年のSPキルンの設置を契機とした周辺住民の抗議活動や、三重県からの強い改善勧告を受けるに及んで、ようやく着手されたものであることが認められる。以上によれば、本件工場の公害防止対策が、被告会社が主張するような最善かつ充分なものであったとは到底いえない。

4 なお、被告会社は、本件工場はばい煙の排出につき法規及び条例上の基準を遵守していた旨主張し、かつ、前記第二、四で認定した事実から実測値の存する昭和四五、六年ころ以降に関する限り、測定値の多くが右基準内にとどまっていたことが窺われるが、それは、単に、本件工場が昭和四五、六年以降行政上の基準を一応遵守していたことを示すにとどまり、このことのみをもっては被告会社の責任に消長をきたすものではない。

二  以上の次第で、被告会社は、民法七〇九条に基づき、前記加害行為によって原告らが被った損害を賠償すべき義務がある。

第四損害

一  はじめに

1 原告らは、本訴により賠償を求める損害につき、第一次的には、本件工場の排出するばいじん等によって原告らの農業経営及び生活の全般が破壊されたという社会的事実を総体的にひとつの損害としてとらえるべきであり、したがって、昭和三五年から同四九年までの間に被告会社の不法行為によって被った全損害を包括的に請求する旨主張するが、本件は主として財産的損害に係るものであること、原告らの主張するような損害の包括請求が請求及び既判力の範囲を不明確にするものであることは他の一般の損害賠償請求との比較において明らかであることを考慮すると、右主張は、にわかにはこれを採用し難い。

また、原告らは、第二次的に、損害を財産的損害と精神的損害に分別し、農作物の減収又は品質低下による被害を財産的損害として、その余の被害を慰藉料として請求するところ、原告らが慰藉料として請求する損害中にも、家屋被害や養蚕被害等の本来財産的損害に属すべきものも含まれているが、後記2に述べる本件における損害の特質等に照らし、右のように、財産上の損害の一部をしん酌しつゝ慰藉料を算定することも許されるものと解する。

2 そこで、次項において、原告らの個々の損害についての損害額の算定に移ることにするが、その前に、これまで認定してきた諸事実を踏まえ、本件において原告らの被った損害の特質について検討し、次に、損害額の算定についての当裁判所の基本的態度を示しておくことにする。

本件は、大規模なセメント製造工場がその操業に伴って排出、放散したばいじん等の汚染によるいわゆる公害事件であって、従来の公害訴訟にもみられた特徴、即ち、被害者としての周辺住民が一方的に被害を受けるだけで加害者に替わることがないという意味での立場の非交替性、広範な自然環境の破壊を伴うゆえの被害の非回避性、一定地域における多数の住民の被る被害の共通性、更に加害者である企業は企業活動によって利潤をあげるが被害者の周辺住民には直接の利益がないことなどの特徴を有する。

そして更に、本件においては、原告らの被った損害は昭和七年の本件工場操業開始以来の極めて長期にわたる継続的なものであって、本訴の請求期間に限っても一五年の長きに及ぶものであるとともに、その汚染範囲も広く、汚染の態様及び損害の種類も多岐にわたっていることなど、通常の不法行為における損害の発生形態と比較して際立った特徴がある。

したがって、各原告につき、通常の不法行為における手法を用いて個別的な損害額の積算を行なうことには著しい困難を伴うばかりか、かえって、これを厳格に要求するときは、結局のところ被害が長期間にわたり広範であるがゆえに被害者に救済の途をとざすことになりかねないし、それでは発生した損害を適正かつ公平に分配するという不法行為法の理念にも悖ることになる。

むしろ、本件の如き事案においては、その特徴に鑑み、いわゆる定型的手法をかりるなどして、被害の実体を可及的に把握し、その損害額を算出すれば足りるものというべく、算出方法が特に不合理であると認められるような特段の事情のない限り、その方がより妥当であるというべきである。

そこで、右に述べた考え方に基づき、以下に原告らの被った損害額を算定することにする。

二  損害額の算定

1 農作物被害

(一) 本件において、原告らが請求する農作物の減収及び品質低下による被害は、本訴における請求期間に限っても、一五年間という永きにわたるものであって、しかも、多くは消極的損害に関するものであるから、その正確な数量的把握は非常に困難であって、まさしく前項において述べたところが当てはまる場面である。したがって、特段の事情がない限り、各種統計を基礎に、本訴における請求期間、各農作物の特殊性、その他諸般の事情を考慮して、単価、単位面積当りの減収量(或いは、単価に対する減収率)等を一律に定め、更に原告らの各農作物の耕作面積をもとに、損害額を算定することにする(因に、その意味では右耕作面積等も必ずしも絶対的な正確さまで要求されるものではない。)。

ところで、原告らは、農作物被害に関し、これを稲作被害、麦作被害、大根の被害、お茶、桑、一般野菜の被害に分けて、それぞれの損害の算定根拠と損害額を主張しているところ、後に認定する原告らの各農作物の作付及び栽培状況、各農作物の被害態様、価格形成要因その他の事情を考慮すれば、原告らの主張に概ね従って、その耕作する農作物を水稲、麦、大根、その他の農作物の四類型に分け、それぞれについて算定した損害額を積算することによって、農作物被害の総損害額を算出するのが相当である。

但し、桑については、《証拠省略》によれば、原告らによる桑の栽培はすべてが自家で養蚕をするためのものであることが認められ、また、桑葉の減収や品質低下自体による被害があるとしても極めて低廉であると考えられることからして、桑の減収被害をお茶や野菜と同一の範ちゅうで考慮するのが不当なことは明らかであり(なお、原告らは桑葉自体の減収等による損害額算定の基礎事実、即ち、桑葉の価格、単位面積当りの収量等について、主張、立証していない。)、また、桑葉が減収し、又はその品質が低下するときは、これらの桑葉は右のとおり自家の養蚕用のものであるので当然に養蚕被害に反映される筈であり、したがって、桑の被害は養蚕被害に含まれているものともみられるから、これを養蚕被害の算定に当ってしん酌することにする。

(二) 原告らの農作物耕作状況

(1) 原告らが、一家の農業経営の担い手(主体)として、その所有(原告らの家族の所有するものを含む。)又は借地する別表2の1ないし6記載の田畑において、米麦や野菜類などの農作物を耕作してきたものであることは、既に認定したとおりである。

そして、《証拠省略》を総合すれば、原告らは、それぞれ、昭和三五年から同四九年の間、別表2の1ないし6の田畑において、別紙〔二〕認否一覧表二の1ないし6の各「作付状況」欄に、×印又は転作等と注記のある田畑及び耕作期間は、その期間中、当該田畑の全部又は注記に係る面積を転作するなどし(但し、注記に係る年度の下に+とあるものは、当該年度は稲作をしたものと認める。)、その余の田畑及び耕作期間は別表2の1ないし6の各作付状況記載欄のとおりの作付内容で耕作をしてきたものであること、各原告の稲、麦、大根、その他の農作物(お茶及び一般野菜。なお、前示の理由により桑は除く。)の昭和三五年から同四九年の間の耕作面積は、別表31の1ないし4記載のとおりであることが、それぞれ認められる。

(2) 前項の事実や、《証拠省略》を総合すれば、原告らの水稲、麦、大根、その他の農作物の耕作状況は、概ね、次のとおりであったことが認められる。

イ 水稲及び麦

原告らの農業経営においても、全国一般の農家と同様、水稲の耕作がその中心をなしているが、田植時期は三重県の他地域よりはやゝ遅いものの、比較的早期化する傾向がみられ、五月中には田植えを終え、九月ころまでに収穫することも多かった。また、麦作は、ビール麦が最も多く、他に小麦、大麦等も栽培されていたが、畑作のほか、稲作の裏作として作られたものも多い。

ロ 大根

原告らの大根の栽培は、八月下旬から九月初めころ播種し、一一月下旬ころから収穫を始めるのが普通で、稲作の裏作として作られたことも多く、なかには稲作と麦作の間に大根を作る三毛作が行なわれることもあった。なお、原告らが大根を大量に作るようになった理由として、漬物業者が漬物用に大量の買付けをするようになったことがあり、したがって、収穫された大根は右漬物業者に漬物用として売却されることが多かった。

ハ その他の農作物

以上の農作物以外で、原告らが栽培した農作物としては、野菜類、お茶等があり、野菜類は、なす、きゅうり、白菜、ホウレン草、人参、キャベツ、ねぎ、甘藷、落花生、大豆等で、果菜類、葉菜類、根菜類のすべてを含み、栽培期間との関係でも夏野菜もあれば、冬野菜もある。そして、これらの野菜は、多くは畑で栽培されたが、稲作の裏作として栽培されることもあった。なお、このうち、なす、きゅうり、白菜などは、大根と同様に漬物業者に漬物用野菜として売却されることが多く、お茶は、自家消費用のほか、商品用としても栽培された。

(三) そこで、以下に、水稲、麦、大根、その他の農作物のそれぞれにつき、順次、各原告の損害額を算定する。

(1) 水稲

まず、原告らの被った水稲の一〇アール当りの減収量(品質低下を含む。以下同じ。)は、前記第二、四、2及び同四、3、(一)で認定した事実、殊に、本訴請求に関係する昭和三五年から同四九年を通じ、最も降下ばいじん量が減少していた昭和四八年、昭和四九年に行なわれた前記谷山助教授らの収量調査の結果、同助教授らの行なったセメント粉末散布実験の結果、硫黄酸化物や土壤中重金属も一部影響を及ぼしており、以上が併存することによる相乗的かつ相加的効果も考慮する必要があること、原告らの耕作農地所在地域付近の汚染状況等諸般の事情を考慮すると、少なくとも昭和三五年から同四九年を通じ、全水稲耕作農地の平均で一〇アール当り五八キログラム(《証拠省略》から算出される藤原町における昭和三五年から同四五年の一五年間の一〇アール当り平均年収量のほゝ二〇パーセント)を下らないものと認めるのが相当である。

次に、単価としては、当裁判所に顕著な昭和三五年から同四九年の米の政府買入価格(但し、正味六〇キログラム当り)の右一五年間の平均価格七四九〇円(円未満切捨。なお、うるち一等ないし四等平均包装込価格)をもって、昭和三五年から同四九年の間の平均単価と定めるのが相当である。

また、各原告の水稲耕作面積は前記別表31の1記載のとおりであるから、次の計算式によって、各原告の被った稲作の減収等の被害を算出すると別表32の該当欄記載のとおりになる。

各原告の耕作面積(10a)×減収量(10a当り)×単価(60kg当り)

(2) 麦

前項で水稲の減収量を認定するのにしん酌した事実及び前認定のように本件工場周辺ではばいじんが農作物の減収等の主たる要因であること、麦の栽培期間には降下ばいじん量が比較的少ないこと等の諸般の事情を考慮すれば、麦の減収量は、昭和三五年から同四九年までを通じ、麦の全耕作農地の平均で一〇アール当り一八キログラム(《証拠省略》から算出される藤原町における昭和三九年から同四五年、昭和四七年から同四九年の一〇年間の小麦・大麦・裸麦の一〇アール当り平均年収量のほゞ一〇パーセント)を下らないものと認めるのが相当である。

次に単価としては、当裁判所に顕著な昭和三五年から同四九年の小麦・大麦・裸麦の政府買入価格(但し、正味六〇キログラム当り。なお、大麦は六〇キログラム当りに換算した。)の右一五年間の平均価格三〇九九円(円未満切捨。なお、小麦は二類三等、大麦及び裸麦は三類三等)をもって、昭和三五年から同四九年の間の平均単価と定めるのが相当である。

また、各原告の麦の耕作面積は別表31の2記載のとおりであるから、前記稲作の場合と同様の計算式によって、各原告の被った麦の減収等の被害を算出すると別表32の該当欄記載のとおりとなる。

(3) 大根

先に水稲の減収量を認定するのにしん酌した事実や、その栽培期間と降下ばいじん量の関係が前記麦の場合とほゞ同様であることなどの諸般の事情を考慮すれば、大根の減収率(品質低下を含む。以下同じ。)は、昭和三五年から同四九年を通じ、大根の全耕作農地の平均で、次に定める単価の一〇パーセントを下らないものと認めるのが相当であり、次に、単価としては、前記のとおり、原告らの栽培した大根は漬物業者に大量に売りさばかれることが多かったこと、《証拠省略》から窺われる右漬物業者への大根売り渡し価格のほか、三重農林水産統計年報、当裁判所に顕著な消費者物価指数の推移等を総合して、キログラム当り一五円をもって、昭和三五年から同四九年の間の平均単価と定めるのが相当である。

なお、《証拠省略》によれば、昭和四四年から同四六年の原告らの大根収量は別表12記載のとおりであることが認められ、昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年の期間は、《証拠省略》によって認められる三重県における一〇アール当り大根収量(昭和四八年)三一九三キログラムをもって原告らの一〇アール当り大根収量と推定することとする。

また、昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年の原告らの大根耕作面積は別表31の3記載のとおりであるから、以上の数値を用い、次の計算式によって、各原告の被った大根の減収等の被害を算出すると別表32の該当欄記載のとおりになる。

昭和三五年から同四三年、昭和四七年から同四九年

各原告の耕作面積(10a)×3193(kg:原告らの10a当り推定大根収量)×単価(kg当り)×減収率

昭和四四年から同四六年

各原告の大根収量×単価(kg当り)×減収率

(4) その他の農作物

先に水稲の減収量を認定するのにしん酌した事実や、前記の原告らによる野菜、お茶等の栽培期間、作種、栽培状況等の諸般の事情を考慮すれば、その他の農作物の減収率は昭和三五年から同四九年を通じ、野菜等の全耕作農地の平均で、次に定める単価の二〇パーセントを下らないものと認めるのが相当であり、次に、単価(但し、これについては、一〇アール当りの収益として定める。)としては、右の作種及び栽培状況や三重農林水産統計年報、前記消費者物価指数の推移等を総合して、一〇アール当り九万円をもって、昭和三五年から同四九年の間の平均単価と定めるのが相当である。

なお、その他の農作物の耕作面積は、別表31の4記載のとおりであるところ、このうち、原告佐藤英明の耕作面積は、昭和四八年、昭和四九年のお茶の耕作面積を含んだものであるが、《証拠省略》によれば、右のお茶は昭和四八年から昭和四九年にかけて苗木を植えたものであること、通常お茶は成木となるのに三年ないし五年かかることが認められることからすれば、昭和四八年、昭和四九年に収穫を期待できないことは明らかである。もっとも《証拠省略》によれば、同原告はこの間、苗木の生育が不良であるため、相当数の補植を余儀なくされたこと、これには一部本件工場排出に係るばいじん等が原因となっていることが窺われるから、苗木の補植等を余儀なくされたこと自体が同原告の損害というべきであるが、原告らは補植本数及びその費用等について明確な主張、立証をしないため、財産上の損害として損害額を算定することができないから、これも後記慰藉料の算定においてしん酌するほかない。したがって、原告佐藤英明のその他の農作物の耕作面積としては、別表31の4記載の耕作面積から前認定の昭和四八年、同四九年のお茶の耕作面積(一四二一平方メートル)を控除したものを用いることにする。

以上によって、次の計算式により、各原告の被ったその他の農作物の減収被害を算出すると別表32の該当欄記載のとおりになる。

各原告の耕作面積(10a)×単価(10a当りの収益)×減収率

2 慰藉料

原告らが本件工場の排出するばい煙によって、前記農作物被害のほかにも多様な被害を被っており、これが受忍限度を超えるものであることは前認定のとおりであり、このため、原告らが精神上の苦痛を感じてきたことは明らかであるので、被告会社に対し慰藉料を請求できるものというべきである。

ところで、慰藉料額の算定は各原告ごとに個別的事情を考慮して算定されるべきところ、原告らの被害の性質、被害期間、被告会社のばい煙の排出状況、被害防止の努力、被害補償及び改善要求交渉の経緯、原告らの各田畑の耕作面積、各家屋の構造等については、これまで判示してきたとおりである。

なお、慰藉料算定の基礎となるべき被害は、要するにばいじん等によって生活環境全般が汚染されることによる被害ということに要約されるが、便宜上、これを農業経営に関するもの、家屋に関するもの、日常生活に関するものに分けて、以下に、具体的に述べる。

(一) 農業経営について

《証拠省略》によれば次の事実が認められる。

原告らは前記減収被害の他にも、農業経営等のうえで、ほゞ共通して次のような被害を受けた。

原告らが丹精して作った農作物には、ばいじんが付着するため、その外観が悪くなり、稲等の刈り入れ作業の際にはばいじんのため鎌がなまり、疲労は激しく、手足も傷みやすく、脱穀作業の際にはばいじんが舞い上るなど、農作業全般に様々の支障が生じた。また、ばいじんが付着したわらは家畜の飼料としても使用できなくなったし、野菜類も食べるとばいじんのせいで口の中でジャリジャリしたり、お茶などは湯呑の底にばいじんがたまる仕末で、更に、茶の苗木を植えても生育が不良で相当数の補植を余儀なくされることもあった。そして、原告らの周辺の田で昭和四八年ころ以降カドミウムに汚染された米が出現し、原告らの田もカドミウム汚染調査田に指定されたりしたことに伴ない、己が丹精した米を食するにも、カドミウム汚染を脅えざるをえない有様であった。

また、《証拠省略》によれば、昭和三五年以降では、原告毛利は昭和四三年ころまで、同森は昭和四七年まで、同佐藤弥は昭和四六年ころまで自己の栽培する桑葉を用いるなどして養蚕を営んでいたが、桑自体が減収等するうえに、ばいじんの付着した桑を食べさせることになるため、蚕の食桑量が落ち、したがって収繭量は大幅に落ち込みを来たし、加うるに品質も相当低下し、更には、蚕が幼齢期のうちは葉を一枚一枚洗って食べさせざるをえなくなるなど無用の手間を余儀なくされた。そして、そのことも一因となって、右原告らは昭和四七年までに全部が養蚕をやめた。

(二) 家屋について

ばいじんによる被害及び汚染の程度が、原告川杉行雄の居宅において重度で、その他の原告らの居宅において比較的軽度であったこと及び汚染及び被害の経緯は、前記第二、四、3、(四)で認定したとおりである。

また、《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告川杉行雄の居宅について

別表1記載の(1)、①の居宅は、昭和三四年に建築されたが、同居宅の色瓦は建築後一、二年で山の部分も含めてほぼ全面が灰白色を呈し、積雪と見紛うような状態になり、入母屋造りの隅棟部分の雨水を流すトンネルは、ばいじんによって閉塞されて雨漏りがするようになり、これを防止するため同所の瓦を取り除いてトタンを張ることを余儀なくされた。

また、樋にはばいじんがたまり固形化した堆積物となって雨水があふれるので、その度にこれを取り除く作業を強いられることになったし、樋や支え金具の傷みもはげしく、柱や建具にもばいじんが積もって、特に戸のさんは灰色に変色する等している(樋や柱、建具のことは、他の原告らにも概ね共通している。)。

(2) 原告佐藤英明の居宅について

別表1記載の(2)、①の居宅は、昭和八年ころに建築したもので、当初は普通の日本瓦であったが、ばいじんが付着してよく割れ、雨漏りもひどかったこともあって、昭和四二年に全部黒瓦に葺き替えたものであるが、この瓦も既に谷間の部分等にばいじんが付着し汚染されている。

また、その他の建物の瓦にもばいじんが付着、固形化し、凍て割れや雨漏りがするため、毎年瓦を差し替えている。

(3) 原告川杉三雄の居宅について

別表1記載の(3)、①の居宅は、昭和七年ころ建築したもので、屋根の大部分はわら葺(但し、ひさし部分は瓦葺)であるが、普通五年くらいもつわらが傷みもひどかったこともあって、昭和三九年にわらの上にトタンをかぶせた。ところが、このトタンも既にばいじんによって汚染され変色しているし、瓦にもばいじんが付着、堆積している。

また、附属建物の納屋や土蔵の瓦にもばいじんが付着、固形化して欠け、裏面にもばいじんの一部が廻って、表側と同様に欠けるという状況であるため、毎年相当数の瓦を差し替えている。

(4) 原告毛利勝の居宅について

別表1記載の(4)、①の居宅は、わら葺の旧居宅(但し、ひさし部分は瓦葺)が傷んだため昭和三二年に建替えたもので色瓦葺であるが、建築後二、三年で屋根、柱、建具がばいじんのため白くなってしまい、昭和四九年の検証時にも「粉塵が付着して一見白い液を流したようであり、柱も白っぽい色を呈し建物全体が古めかしく見える」という状態であった。

また、附属建物の小屋や土蔵の瓦にもばいじんが付着して割れるため、毎年瓦の差し替えをしている。

(5) 原告森五郎の居宅について

別表1記載の(5)、①の居宅は、コンクリート造2階建居宅であるが、わら葺の旧居宅がばいじんのためわらが腐って一年くらいで葺き替えを必要とし、雨漏りもひどいこともあって、昭和三九年に改築したものである。

また、附属建物の小屋は、昭和二八年に瓦を全部葺き替えたが、ばいじんが付着堆積するなどで、瓦の割れもひどく毎年相当数の瓦の差し替えをしている。

(6) 原告佐藤弥の居宅について

別表1記載の(6)、①の居宅は、明治時代の建築であるが、ばいじんによるわら葺屋根の腐りや瓦の割れがひどく、雨漏りがするため、瓦は昭和三一年と昭和四二年に葺き替えたほか、わら葺の部分についても、昭和四五年ころわらの上をトタンで覆った。しかし、その後もトタンが白く汚染され、瓦も毎年相当数の差し替えをしている。

また、附属建物の土蔵等の瓦もばいじんによって瓦の色が変色し、割れもひどい。

(三) 日常生活について

既に認定したとおり、本件工場がセメント製造に伴い排出するばいじんによって、一時は原告らの居住地域、耕作農地所在地域付近一帯が灰白色になるほどで、また、ばいじんに含有される重金属によって原告らの耕作する田畑の土壤も汚染にさらされるなど、原告らの生活環境は広範にわたって汚染された。それが、原告らの生活の隅々にまで影響を及ぼしたであろうことは想像するに難くないが、その全てを網羅することは困難なので以下、その主要なものを列挙するにとどめる。

《証拠省略》によれば次の事実を認めることができる。

本件工場の排出したばいじんは、原告らの家屋に侵入して畳、廊下、家財道具等に付着し、ひどい時はタンスの引出しにまで入りこんで原告らに生活上、多大の不快感を与えたのみならず、掃除等の家事労働による負担を増大させ、また、居宅の庭木、庭石にも一面に付着し、庭などに洗濯物を干した場合はばいじんが付着して洗っても落ちず、自動車、農機具なども一晩で掃除をせざるをえないほど汚れた。また、山林等の立木もばいじん等により汚損された。

以上のほか、本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、原告らが本件工場排出に係るばいじん等により生活環境の全般を汚染されることによって被った精神的損害(但し、後記消滅時効との関係で本訴提起の日より既往三年間のうちに発生した精神的損害に限る。なお、必ずしも、右三年間のうちに排出、放散されたばいじんに係る被害に限定する趣旨ではない。)に対する慰藉料は別表33の各該当欄記載の金額と評価するのが相当である。

3 弁護士費用

原告らが、原告代理人らに本訴の追行を委任し、報酬等の支払約束をしたことは、《証拠省略》により明らかであるところ、記録上認められる本件事案の難易、審理経過、本訴認容額、諸般の事情等に鑑み、本件不法行為と相当因果関係を有するものとして、原告らが被告会社に対して請求することのできる弁護士費用の額は、認容金額の一割とするのが相当である。

第五消滅時効の抗弁について

被告会社は、原告らはいずれも本訴提起から既往三年より前にはその主張する損害の発生及び加害者が被告会社であることを知っていたのであるから、その本訴請求中、既往三年より前の部分については既に時効により消滅している旨主張する。

そこで右主張について考えるに、民法七二四条にいう「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」とは、被害者の加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとにおいて、加害者及び加害行為が違法であって不法行為を原因として損害賠償を訴求しうるものであることをそれが可能な程度に具体的な資料に基づいて、知るに至った時をいうものと解すべきところ、農作物の減収等の被害については、本件全証拠中にも、原告らが本訴提起から既往三年より前に以上のような意味での認識を有していたものと認めるに足りる証拠はない。

かえって、これまで認定してきた事実や、《証拠省略》を総合すれば、原告らは、本訴提起に至るまでにも、被告会社に対し、何度か稲作等の被害補償要求等を行なってきたが、農作物の被害に関しては、農作物の減収等の原因は、気象条件、土壤、水管理、肥培管理、害虫等、多くの要因にかかわり、また、被害発生の事実もその性質上必ずしも明瞭とはいえないため、被害原因についてはもちろん、減収等の被害発生の事実についてすら、それを証明するための具体的資料を有していたわけではなく、単に、原告らの農耕生活上の実感を根拠にするか、せいぜいが本件工場の関係者を現場に案内して被害状況を見てもらう程度の手段しか持ち合わせず、したがって、被告会社からは減収等の被害発生の事実さえ争われるような仕末であったこと、原告らが、ある程度具体的資料に基づいて被害の発生及び原因について前記のような意味での認識を有するに至ったのは、早くとも、原告らの大部分を含む有志農民グループ瑞穂会の依頼により、前記谷山助教授らが現地において本格的に被害の実情及び原因解明のための調査をし始めた昭和四八年の初めころに至ってからであると認めることができる。してみると、右時点から起算しても三年以内に本訴が提起されていることは訴訟上明らかであるから、被告会社の消滅時効の抗弁は、農作物被害との関係では理由がない。

ところで、本件においては、加害行為の態様は、本件工場によるばいじん等の継続的な排出、放散であり、このような継続的不法行為においても、これに基づく損害賠償請求権の消滅時効は、被害者が加害者を知っている限りにおいては、損害が発生するたびごとに各別に時効期間の進行が開始されるべきものと解すべきである。

そこで、慰藉料について検討するに、先に慰藉料算定の基礎たる事情として認定した被害の具体的内容は、主として、本件工場の排出するばいじんによる生活環境全般の汚染ということにあるから、その性質上、原告らは被害の主要部分について、容易にその発生と原因を知りえた筈であり、また、これらによる精神的苦痛の賠償という慰藉料の性質に鑑みると、本件においても、日々に新たに原告らに精神的損害が発生していたものということができる。

以上によれば、原告らは、慰藉料との関係では、損害が発生するたびごとに「損害及ヒ加害者」を知っていたものといえるから、そのたびごとに消滅時効が進行するものと解するのが相当である(したがって、原告らの主張、即ち、被告会社の加害行為は継続的なもので損害は現在も進行中であるから、鉱業法一一五条二項の趣旨により、加害行為が終った時点から消滅時効が進行すると解すべきであるとする見解は採用できない。)。

そうすると、原告らによる本訴提起の日が昭和四八年五月一四日であることは本件記録上明らかであるから、昭和四五年五月一三日以前の慰藉料請求権は時効によって消滅したものといわざるをえない。

第六再抗弁について

原告らは、被告会社は本件工場の操業開始以来、その操業に伴って原告らに大きな損害を及ぼしていることを知りながら、原告らの被害補償要求等の公害反対運動を抑圧分断し、公害立証資料を隠蔽するなどして、原告らに泣き寝入りを余儀なくさせてきたものであり、それにも拘らず、本訴において消滅時効の抗弁を援用することは、権利の濫用又は信義則違反として許されない旨主張するので、検討するに、被告会社は、原告らに対し、長期間にわたって、ばいじん等の排出、放散によって、生活環境の汚染等の損害を及ぼし続けてきたものでありながら、原告らとの補償交渉等の過程において、徒らに自己の責任を回避し、また、被害者個々人との直接交渉を避けるなど、必ずしも誠意があるとはいえない態度に終始してきたものであることは既にみてきたとおりであるし、また、前認定のとおり、原告らが居住する藤原町は雇用面等において本件工場と緊密な関係にあり、住民のうちにも本件工場に勤務する者が多数いたため、その間にあって本訴を提起することには多くの困難が伴っていたであろうことは推測するに難くないが、これらの事情のみをもっては、未だ被告会社において原告らの訴訟提起を悪意をもって妨げてきたものということはできず、或いは、消滅時効の援用を信義則等に違反するとすることもできないし、本件全証拠によるも、他に被告会社の消滅時効の援用が権利濫用又は信義則違反となる事情はこれを認めるに足りない。

したがって、この点に関する原告らの主張は理由がない。

第七結論

(以上の事実認定を左右するに足りる証拠はない。)

以上の次第で、被告会社は原告らに対し、それぞれ別表33記載の請求認容額欄記載の各金額とこれに対する損害発生の後である昭和五〇年一月一日以降支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払い義務があるから、原告らの本訴請求をこの限度において正当として認容し、その余の請求は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文九三条一項本文、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 小林眞夫 裁判官 小野洋一 裁判長裁判官橋本達彦は、転任につき署名捺印することができない。裁判官 小林眞夫)

〈以下省略〉

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